ニッケイ新聞 2013年7月13日
一方、ブラジル側はどんな状況だったのか——。
16、17世紀にイグアッペ河上流では金が発見され、当地最初の〃黄金狂時代〃を迎えた。だから「レジストロ」という名前は、見通しが良い岸辺に監視官をおいて通る船を監視させ、上流で採掘した金を計量させて課税した「金登録港」(Porto de Registro de Ouro)に由来する。
金が出た上流には今でも「エルドラード」(黄金鄕)、「七つの金の延べ棒」が隠されているとの伝説に由来する「セッチ・バーラス」などの地名が名残としてある。金を掘り尽くすと同時にミナスやゴイアスなど内陸部でも続々と金鉱が見つかったことにで、この地方の金鉱業は衰退した。
☆ ☆
イグアッペ市立博物館の解説委員ニッセ・エレーナ・オリベイラさんは、この金ブームのあと、18世紀からイグアッペ米生産が本格化し、その積出し港として町が栄えたと説明する。「米はどこかから持ち込んだんじゃなく、ここに自生していた。川沿いに植えていた水田米だった。それが首都リオに出荷されて好評をえて、リオの政府がブラジル代表としてトリノに出品した」という。
彼女の資料を見せてもらうと、米作は1530年代にはもう小規模に始まっており、1660年には規模が拡大し、1692年には「イグアッペ米」は最初の評価を得たとある。町の始まりとともに開始し、「最盛期は1800〜1860年だった」だったとある。
この最盛期にはポルトガル副領事館も置かれ、新聞も発行され、欧州の劇団が公演し、数々の米長者御殿が立てられた。ウィキ「Historia de Iguape」、以下「ウィキHI」)には「南伯の主要都市の一つだった」とある。アマゾン河中流のゴム景気に沸くマナウス、サトウキビ景気のサンルイスやサルバドールなどと並ぶ帝国時代の重要港湾都市だった。
しかし彼女の資料には「衰退期」との項目が続く。1870年代以降は稲作減退期に入っていたのだ。ウィキHIによれば1852年には同市周辺で39カ所もの精米所、22カ所のピンガ蒸留所、4カ所のカフェー加工所、瓦工場があった。
この「衰退」は収奪式農業による土地の疲弊ばかりでなく、港湾設備の刷新を怠ったつけもあったと同資料には指摘されている。ダメ押しをしたのは「水路開設」だった。
イグアッペはリベイラ河と内海(Mar Pequeno)に挟まれた細長い半島の最も幅が狭い部分に位置し、川側から内海側の港までわずか3キロしかない特殊な地形だ。上流から米を運んできた川舟をリベイラ河口から外海に出し、内海に入りなおすと日数がかかり遠回りだ。川側と海側の港は陸路でつながっていたため、川側の港で米を下ろしてロバなどで海側の港まで運んでいた。
わずか3キロなので陸路にしては短かすぎ、「荷を積み替える手間が無駄」と考えられるようになり、川船がそのまま通れるように幅4メートルの運河を奴隷に掘らせた。リオの一流技師による図面で、帝国時代としては画期的な水利土木工事だった。「20年がかりで1852年に利用が開始された」(ウィキHI)とある。
しかし、この水路が大自然の水の流れに変化を呼んだ。本来は河口にいくべき水が水路に流れ込み頻繁に氾濫が起こり、勝手に川幅を広げ始めたのだ。水路はまるで川自体のようにどんどん広がり「Valo Grande」(Valoは農場等の境界線に掘った溝のこと)と呼ばれ、護岸工事や堤防の建設で1900年頃にようやく氾濫が治まった。
水路開通と同時に「内海側の港に大量の土砂が溜まって、あちこちに浅瀬ができ、最初は大型外洋船の停泊が妨げられ、次第に中型船舶まで難しくなった。以来、港は衰退の一路をたどった」と同資料にある。ウィキHIにも「大型外洋船が寄港できなくなったことは米産地としては致命傷だった」ともある。
日本移民が入植する直前にすでにそんな状態だった。青柳がイグアッペ上流に桂植民地を作ったのは、そんな時期だった。同地百年史編纂委員長の福澤一興さんも「おそらくブラジル側としては、日本移民を入れて盛り返そうとしていたのではないか」と推測する。(つづく、深沢正雪記者)