ニッケイ新聞 2013年7月16日
1910年7月に創立された「東京シンジケート」は、植民構想の具体化のためにまず青柳をブラジルに派遣した。だが、よく見ると、青柳は創立総会前の6月30日に東京を出発している。よほど急いでいたに違いない。
やはり青柳はまずドイツに立ち寄って、ドイツ人による南米植民事業の状態を調べ、9月にリオに到着し、以来18カ月間もブラジルに滞在し、候補地を探した。なかでもパラナ、サンタカタリーナ、南大河州3州の独、伊移民による植民地の実情調査にじっくりと時間を費やした。
本来は、当時のブラジル経済情勢を視察するうえで重要な地域は首都リオだ。そこへの農産物の出荷をする海路の要衝港湾都市サントス(1912年時点で8万人)。リオとの陸路という意味では、カンピーナス周辺からモジアナ線のテーラ・ロッシャ地域こそがコーヒ—産業で潤っていた時代だ。それゆえサンパウロ州で最初の鉄道は1867年に開通したサントス=ジュンジャイー線だった。
1870年代にファゼンデイロが新たなコーヒー耕地を求めて奥地に向かい、ソロカバナ線、パウリスタ線がどんどん奥地へ伸び、1900年代に入ってからノロエステ線、1910年代にジュキア線という具合にサンパウロ州は発展していった。つまり、経済の中心がリオからサンパウロ州に移りつつある時に、青柳は南部3州へ向かった。
この候補地選定の時期と重なるように、第1回で紹介した1911年4月にイタリアのトゥリンで開催された第1回国際産業展覧会で、イグアッペ米が「世界優良の米生産者」として国際顕彰された。これが青柳の決断に強く影響した可能性は高い。〃世界的な米処〃のお墨付きは、まさに大浦兼武農商務相の希望に沿うものであり、ドイツに学ぶことは桂首相の望むところであった。
加えて1911年にはサントス・ジュキア線の開設工事が始まる計画も発表され、この地域が拓けるに違いないとの展望を与えていた。人文研年表にも《鉄道鉱夫として就労したサントス在住の沖縄県人宮城利三郎、仲村渠常吉、平良松太郎等が同鉄道沿線アナ・ジアスの州有地を払い下げてもらい米作に着手。これを皮切りに同聖南海岸地方の気候が沖縄の故郷に似ていたことから、沖縄県移住者が次々に集り一大集団地となる》(33頁)とある。実際に1912年に工事が始まり、14年には順調にジュキア駅までが完成した。
この情勢の中で、青柳はイグアッペ郡リベイラ川沿いの官有未墾地こそ有望と判断し、勢い込んでサンパウロ州政府と交渉に入り、1911年12月には日本人に官有地を払い下げる法的枠組みを整える「イグアペ日本人植民地特許に関する法律」を成立させた。サンパウロ州政府としては他国移民にも与えたことない寛大な特典を付与することを可能にする法律だったという。
実際にこの法律に基づき、1912年3月に東京シンジケートはサンパウロ州政府と官有地無償払い下げ、植民地建設許可の正式契約を結び、青柳は意気揚々と帰国した。
神戸大学附属図書館サイトによれば、帰国のすぐ後、青柳は息つく間もなく、『時事新報』(東京)に1912(明治45)年7月23日から8月29日まで、ブラジル視察の詳細を説明した連載「伯刺西爾旅行」(全24回)を書いている。
そして翌1913年3月10日には、政財界の大物を背景にして本格的な拓殖組織「伯剌西爾拓植会社」を設立する。つまり、この記事はブラジルに植民地を建設することに関して世論の理解を深め、投資家の機運を高めるという役割を果たしたと思われる。
この連載の最中、1912年7月29日に明治天皇が崩御され、翌30日から「大正」が始まった。「近代国家としての建国期・明治」から「大正デモクラシーの時代へ」—まさに歴史の大きな節目だった。(つづく、深沢正雪記者)