ニッケイ新聞 2013年7月16日
敗戦の事実を認識せよ!という声は、終戦直後から、一部で上がっていたが、社会運動として一つの形をとって表面化したのは1945年9月29日、つまり終戦の翌月末のことである。
敗戦派の有志が、サンパウロの中央部近く、通称カンタレイラ街に在った常盤ホテルで集会を開いた。戦勝・敗戦両派を聴衆に招き、宮腰千葉太(海興支店長)、宮坂国人(ブラ拓代表)、下元健吉(コチア産組専務)に講師を依頼、敗戦認識を訴えさせた。(カッコ内は戦前の肩書き)
この企てについては当初「そういうことは、やっても無駄であり、自然に収まるのを待った方がよい」という忠告もあった。後から振り返れば、人間観察に老熟した人の言であったわけだが、有志は実行した。
集会への出席者は百余人を数えたが、完全な失敗に終わった。宮腰、宮坂の話は説得力に欠け、下元のそれは戦勝派に対する敵意剥き出しで、その反撥を買ってしまったのである。(軍艦が予定日にサントスに入港しなくとも、戦勝派は、日本は勝ったという見方を変えてはいなかった)
集会を開いた有志たちというのは、野村忠三郎、藤平正義らである。
野村は、本稿で既に登場している。日伯新聞編集長として、その全盛時代をつくった人物である。邦人社会では名士の一人であった。若者の面倒をよく見た。
藤平は昔、若い頃、野村の世話になったことがあった。こちらは、まだ無名であった。
年齢は野村40代後半、藤平は30を少し越していた。
敗戦認識の啓蒙運動をしていた……などと書くと、誰でもインテリ、文化人を想像しがちだが、野村はともかく、藤平は正反対のタイプであった。日本時代は硬派の学生で、ブラジルでは(彼の友人で、後にサンパウロ新聞の編集長になった内山勝男によれば)喧嘩をよくやり、おそろしく強かった、という。
家庭奉公人(下男)やロッテリア売りまでしながら、あらゆる機会をとらえ、のし上がろうとし、事実のしあがった男である。
筆者は、1960年代後半以降の藤平を知っている。その頃は(邦人社会改め)コロニア屈指の実業家になっていた。容貌が喜劇役者のようであった。権威者、例えば日本から来た有名な政治家に、人前で、中身は宝石らしい土産物の小包を持って擦り寄って行くようなところがあった。一方で、嫌いな人間には、露骨に悪感情を現した。
しかし切れる人物という印象であった。
後年、破産し一切を失しなった。
この藤平は、戦時中は、オールデン・ポリチカに拘引され、敵性国人の収容所に長く勾留されていた。理由は不明であるが、他の人々同様、冤罪であったろう。
常盤ホテルの集会の仕掛け人は──その前後の断片的な幾つかの資料や関係者の性格を組み合わせると──この藤平正義であった、と筆者は観ている。野村を説いて表に立たせて動いた、と。
野村は、表に立ったため、翌年、命を失う。
藤平の動機が、何であったかは判らない。名前通りの正義感からであったかもしれない。が、別の、野心家らしい思惑もあったろう。例えば、これを機に、邦人社会の指導者連中に自分を認知させようといった類いの……。
宮腰、宮坂、下元は、野村の依頼で動いた筈である。
オールデン・ポリチカが、後に参考人から聴取した調書(ポ語)が残っているが、その中に、藤平のそれ(1946年5月7日づけ)がある。直訳すると、要旨、次の様に話している。
「昨年8月15日、日本の降伏のニュースを聞いた。ニュースは、同日、東京からの天皇の放送により確認できた。同様にして事態を知った邦人社会の識者たちは、心底から愕然とした。しかし皇軍の敗北を受け入れ、現実に順応した。…(略)…同月17日、邦人社会の一部分子が、日本が戦争に勝ったというデマを広めていることを知った。…(略)…直ちに、このデマが何処で発せられているかを探そうとして友人・知人たちを訪問した。事態の悪化を避け、純朴な人々を守るため、デマを打ち消さなければならない、と判断したからである。邦人社会の権威ある人々に助けられて、何度も会議を開き、細部について意見を交換した…(略)…」(つづく)