ニッケイ新聞 2013年7月17日
常盤ホテルでの失敗に懲りず、翌10月、野村・藤平は、下元健吉と組んで、またも同じ様なことを企てた。日本政府から、国際赤十字社を通じて、終戦の詔勅が邦人社会に届いたのを機会に、10日、各地の代表者をコチア産組の講堂に集めて、その伝達式を行ったのである。
詔勅は英文で打電されて来ていた。それを日本語に翻訳、2千部印刷して出席者に渡し、地元へ帰って配布するよう依頼した。地方からの代表者30人が出席した。一般からも300人の参会者があった。
詔勅には、終戦事情伝達趣意書(通称)も添付した。それには、戦前、邦人社会の代表格であった7人が名前を連ねた。
脇山甚作(日伯産業組合中央会理事長)、古谷重綱(元駐アルゼンチン日本公使)、宮坂国人、山本喜誉司(ブラジル東山総支配人)、蜂谷専一(日本商業会議所=在サンパウロ=会頭)、宮腰千葉太、山下亀一(コチア産業組合理事長)である。(カッコ内は戦前の肩書き。前回記した人のそれは省略)
この7人は、野村・藤平に担がれたのである。が、名を連ねたため、後に脇山と古谷は襲撃され、脇山は落命している。
年齢は、いずれも50代後半から60代で、70歳前後の人もいた。
脇山甚作は、既述したが、日本陸軍の退役大佐で、興道社の創立者の一人である。その興道社は、臣道連盟と改称、戦勝論を唱えていた。矛盾することになるが、脇山は、日本の敗戦を認識していた。
伝達式では「時局解明趣旨貫徹」の決議も行われた。その趣旨貫徹のため、上記の7人や野村たちが、手分けをして地方を巡回、戦勝派を啓蒙することを決めた。
詔勅が届いた以上、戦勝派も、敗戦を認めるであろう、と楽観視していたのである。
ところが、これも状況誤認だった。
まず宮腰、野村たちが10月後半、バストスを訪れたが、地元では戦勝派が激昂しており、懇談会など開ける雰囲気ではなかった。次いでプレジデンテ・プルデンテ、アルバレス・マッシャードでは、開催することはできたものの、やはり会場で戦勝派の猛反撃に遭った。「英文で書いた、しかも陛下のご印のない詔勅など、認めるわけにはいかん」「正式な使者を待て!」……と。
コチアの下元健吉も、出張、組合の地方倉庫 (事業所)で、敗戦認識を唱えた。が、会場では、戦勝派が殺気立ち、護衛役を務めた青年の一人は「生きて、この会場を出られないかもしれない」と緊張したという。
戦勝派は、常盤ホテルの集会に次ぐコチア産組での伝達式に、不快感を極度に高めていたのに、さらに地方巡回までして敗戦を押し付けに来た──と憤激したのである。
伝達趣意書の署名者の一人蜂谷専一は「結果としては、この趣意書の発表が、戦勝デマの火に油を注ぐことになり、不安と疑惑に極度の動揺を示していた在留同胞を、戦勝デマを信ずる方向へ追い立てて行った」 と率直に認めている。
野村・藤平は、またも失敗したのである。
啓蒙運動は、理論的には筋が通っていても、現実には、ボヤを消そうとして大火にしてしまう様な結果を招いた。しかも火は勢いづき、多方面に飛び火して行った。
認識派史観Ⅲは、そういう結果を含めて、検討する必要がある。
敵対視、始まる
戦勝派と敗戦派の関係は、初期の段階では意見の相違に過ぎなかった。が、啓蒙運動の結果、敵対視するようになった。それは何処でも、そうであった。同じ入植地、同じ町、同じ職場で……。女、子供まで巻き込んだ。パウリスタ延長線ポンペイアのジャクチンガ植民地に居って戦勝派だった国井精は、こう語る。
「ジャクチンガは、1940年代から50年代にかけての最盛期、100家族近くが居った。敗戦派に強力なリーダーが居って、その比率が他所の地域よりズッと多く、戦勝派6対敗戦派4くらいの割合だった。
ワシの家は戦勝派で、親父は隣の敗戦派の家から、贈り物に卵なんかを持って来たりすると『持って帰れ!』と。そんな具合で、両派は子供までが対立して喧嘩をした。
こちら(戦勝派)が、日本学校を再開しようとすると、向こう(敗戦派)が警官を連れて乗り込んできて閉鎖させる、というようなこともあった」(つづく)