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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第117回

ニッケイ新聞 2013年7月17日

 目下のところ、ブラジルの在日権益代表であるポルトガル総領事館から旅券の発給を受けた日系ブラジル人は前記中平兄弟のほかサンパウロ市生れの千崎クララ夫人(二十六=杉本芳之助令嬢)および令嬢の四人だけであるが、中平兄弟の方は他の航空会社の通し切符まで手にいれている関係で、終戦後の日系ブラジル人のブラジル帰還一番乗りはこの兄弟によって実現される可能性が多い。
 日本に残す感想として、ブラジル帰還を喜ぶ兄弟、千崎クララさんは次のような感想を述べている。
中平君=僕は戦争勃発の前の年の十六年に弟と一緒に勉学のため日本に来たのですが、船橋(千葉県)の親戚の家から通学し、首尾よく船橋中学を卒業しました。弟は三年で切り上げて帰国しますが、僕達は帰国の上勉強を続けたいと思っています。戦時中は学徒動員で一時九州へ参り偽装飛行機の製作を手伝ったことがあります。
 一日も早くブラジルへ帰って父母兄弟に逢いたいと思います。父はマリリアでラミーの栽培をやっております。
千崎クララ=何と申しましてもブラジルは私の生まれ故郷なんですから夫がフィリピンで戦死してからは一日も早くブラジルへ帰りたいと思い続けました。
 大阪は食糧事情も悪くいたるところに追剥ぎや強盗が出て、仲々物騒ですから私などはとても長い間住めません。早く食料の豊富な故郷へ帰り親兄弟や旧友達に逢いたいとそればかり念じております」(一九四八年一月十日)

「おお我が子が帰る 長旅の疲れもみせず中平兄弟、無事着聖
 八日午後二時五分、いまにも一雨来そうな空模様の下に広がるコンゴニア飛行場にいまリオから着いたばかりの飛行機から降り立った二人の少年がある。日本帰り第一陣の中平安、武兄弟が長途の旅を了え、懐し生まれ故郷サンパウロの土を踏まんとする感激的な刹那の姿だ。
 わくわくした気持ち パパイに逢うのが恐かった はにかむ兄弟
 遠慮がちにではあるが、両君は記者の質問に対して姿勢を正してテキパキした口調で次のように答えた。
 僕たちは二十一日日本を発ちました。次の日北米のサンフランシスコに着き二日間滞在し、それからニューヨーク、ここでは吹雪きのため二十時間ほど休みました。
 七年振りにお父さんお母さんに会った感想はと訊きくと、何だかこうワクワクしてしまってどう言ってよいかわかりません」(一九四八年一月二十九日)
 パウリスタ新聞の東京支局は日本に留学していた二世が、本社へ日本の動向を伝えていたもので、本社から支局員を派遣して開局していたものではなかった。
 パウリスタ新聞には二世がブラジルに帰国したというニュースが報じられていた。しかし、すべての二世がブラジルに帰国できたわけではなかった。彼らから戦死した仲間の情報が日系社会に流された。
 中には日本人として戦地に赴き、戦死していた二世もいた。その中の一人は神風特別攻撃隊の一人として戦死し、その手紙が遺族の元に届けられたという記事もあった。
 そうした記事を丹念に拾い、サンパウロ市周辺の日系人を取材してみようと児玉は思った。
 戦死したのはその一人だけではなく、かなりの数にのぼるが、彼らはブラジル国籍を持っていると同時に日本の国籍を持っていた。ブラジル生まれの二世がどんな思いで日本軍に加わったのか、それを知りたいと思った。二世が靖国神社に祀られている事実を書けば原稿料が稼げると思った。
 茶色に変色した当時の新聞を広げ、メモを取ったり書き写したりしている児玉の姿に編集部の幹部は児玉が変わったと思ったようだ。 (つづく)


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