ニッケイ新聞 2013年7月18日
同じポンペイアの市街地に居た白石静子(既出)は14、5歳であったが、こう思い出を語る。彼女の家族も戦勝派であった。
「ウチの親族に不幸があって、葬儀の時、近くの敗戦派の人が香典を届けに来ました。私は、一緒に住んでいた叔父に言いつかって、返しに行きました。『申し訳ありませんが、これは受取れません』と。すると向こうは『香典を返されたのは始めてだ』と。『ハイ、私も返すのは初めてです』と。商売を大きくやっていた人でした」
これも、本稿ですでに登場したことのあるサンパウロの赤間学院では、職員、生徒、親が戦勝・敗戦両派に分かれて対立、口もきかぬ状態となった。一時は学校を潰してしまえ、というところまで行った。止むを得ず、両派のリーダー格だった職員たちを喧嘩両成敗で解雇して、漸く収拾した。
認識派史観Ⅲは、啓蒙運動が惹き起した、こういう結果にも触れていない。
戦勝派団体
敵対視が始まる中で、臣道連盟以外にも(認識派史観Ⅳの様に)戦勝派の団体が多数できた。
在郷軍人会、日の丸倶楽部、精華連盟、皇道実践連盟、忠道青年会、青年同志会、国粋青年団、愛国日本人会、忠君愛国同志会、正愛国日本人会、八紘会……などである。
内、在郷軍人会は臣道連盟の分派で、退役軍人を対象に同志を募った。
その他は地域団体であった。
名前がものものしい割には、いずれも構成員は少なく、大した活動はしていない。
戦勝派が、敗戦派の啓蒙運動の浸透を防ごうとして、同志の結束を固めるため創った団体が多かった。
が、敗戦派は、そういう実態には気付かず、不気味に感じ恐れていた。
臣道連盟は、これら諸団体より早く終戦直前に生まれており、サンパウロに本部を置き、州内全域、州外にまで支部を置き、加盟者も他の団体に比較すれば、桁外れに多かった。
ただし認識派史観Ⅳの「臣連は戦時中、養蚕・薄荷農家の襲撃というテロを指揮・扇動した秘密結社興道社の……」という部分に関しては、すでに記した様に、当時の興道社関係者や襲撃者自身が否定している。
なお、右の襲撃者というのは、最初の養蚕舎焼き討ち事件の実行者であるが、それ以降の事件も「興道社の指揮・扇動によって起きた」ことを裏づける材料は存在しない。
以下も既述したことであるが、この養蚕・薄荷農家の襲撃事件に関連、1944年8月、警察は興道社の吉川順治社長を逮捕している。が、起訴はできず、翌年11月、釈放している。テロを指揮・扇動した事実がなく、起訴できなかったのである。
認識派史観Ⅳの、興道社の後身の臣連は「狂信者の牙城となった」という部分も、注釈が要る。
臣連は、加盟者を2、3万と号し、家族も含めれば10万とか12万とホラを吹いていた。が、実は2、3万というのは、大分、水膨れさせた数字であった。2、3万の加盟者が会費をキチンと払っていれば、運営資金は潤沢であった筈である。が、臣連本部には金はなかった。
加盟者数の水膨れについては、臣連トッパン支部で青年部の指導をしていた山内房俊が2004年、筆者に、そう話しており、運営資金については、本部職員佐藤正信(既出)の自分史にも出てくる。
つまり牙城というほど凄みのある組織ではなかったのである。(つづく)