ニッケイ新聞 2013年7月19日
また、臣連は、終戦で利敵産業防止運動は必要なくなったため、止めていた。同時に秘密結社から公開団体へ切り換えていた。
事業目的も「大東亜共栄圏への再移住」に変えていた。大東亜共栄圏は、日本の敗戦で雲散霧消していたが、臣連は戦勝説をとっており、健在であると信じていた。
戦勝説、大東亜共栄圏への再移住、その再移住のための一時帰国が、戦勝派の心を捉え、当初、参加者が急増した。
もっとも、再移住といっても、簡単にできることではなく、それまでは準備のため青少年の教育をする、という事業計画を立てていた。そのため、臣連を精神修養団体として当局の公認を得べく、申請していた。
敗戦派との抗争を準備していたわけではなかった。
しかし敗戦派は、その力を過大視して、牙城視していた。
認識派史観Ⅳは、戦勝派団体に関して、これまた、状況誤認をしていたことになる。
脅迫
状況誤認が続く中、戦勝・敗戦両派の対立気分を、一段と刺々しくする異常事が頻発した。
認識派史観Ⅴにある「脅迫」である。夜間、敗戦派の自宅に脅迫状を投げ込んだり、家の壁や窓に「国賊」などと落書きしたり、大きな紙に脅迫文を書いて市街地の目立つ所に貼ったりした。
敗戦派は、これを臣道連盟など戦勝派の団体がやっていると思い込んでいた。その裏づけ材料は存在しないが、これをやったのは、戦勝派の中の誰かだったことは確かである。
この脅迫行為が、戦勝派のイメージを甚だしく陰険なものにし、それはそのまま、今日に残っている。
戦勝派史観は、この点には触れていない。
ちなみに、筆者は、念のため、(本稿ですでに登場の)山下博美や日高徳一に、どこが、あるいは誰が、こういう脅迫をやったのか、聞いてみたが「全く知らない」という返事であった。
参考までに記せば、脅迫行為に関しては、次の様な話もある。
アララクアラの近くのモツーカという地域にあった東京植民地の、馬場直とその家族に起きたできごとである。
馬場直は、日本移民の植民地建設史上のパイオニアであった。1915年、彼が中心になって造った東京植民地は、一資料によれば、入植者は──出入りが激しく──常時、百数十家族、延べ千五百家族ほどであった。ここは、風土病により300人以上の犠牲者を出したことで知られる。が、一時は模範植民地といわれたこともある。無論、それまでの辛苦は筆舌に尽くしがたい。
馬場は、この植民地の創立、建設の功労者であった。が、認識派であったため、脅迫状を送りつけられ、家族と共に追われる様にして、ここを去った。
植民地内には戦勝派が多く、馬場には強い反発があったのである。
馬場の娘、エルザ赤間が2009年、次の様に、筆者に語っている。(エルザは、既出の、赤間学院の前理事長夫人)
「脅迫状には、何月何日に行くから、風呂に入って身体を清めておけ、と書かれていました。家族は、その前日、植民地を離れました。私は、その時12歳で、アララクアラの中学校の予備校に通っており、先生の家に下宿していました。そこへ家族が迎えにきました。
転居した先はピラシカーバでした。ピラシカーバは日本人が少ないそうだからというのが、父がそこを選んだ理由でした」(つづく)