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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第119回

ニッケイ新聞 2013年7月19日

 思わず児玉が聞き返した。
「広島と長崎は原爆で廃墟になった。何十年も草木も生えない。ピカドンにやられてみんな死んでしまった。そんな記事を読んで喜ぶ日本人がいると思うのか」
 甲斐一家も一旗上げるつもりでブラジルの土を踏んだのだろう。故郷には家族もいる。まして長男が帰国し、帝国陸軍の兵士として徴兵されている。
 敗戦のニュースや広島が壊滅状態にあるニュースなど信じたくなかったのだろう。児玉は勝ち組の心理の一端を知る思いだった。
 戦後、日本とブラジルの国交が回復すると、サンパウロ総領事館を通じて、長男がビルマ戦線で戦死していたという知らせが届けられた。
「わしは長男を誇りに思う」
 老人が言った。
 老夫婦から現在に至るまでの話を取材した。
 帰りは最初に応対に出てくれた老夫婦の孫がロードビアリアまで送ってくれた。
 児玉は週末になると、戦死した二世の親の家を訪ね回った。中には終戦間際に神風特攻隊に加わり、遺書を残し戦死した二世までいた。児玉は取材した内容を記事にして、日本に送った。
 児玉が興味を抱いたのは、戦後の勝ち組、負け組の抗争を繰り返していた時、二世たちはそれをどのように見ていたのか。二世にとって、自分のアイデンティティは日本なのか、ブラジルなのか。勝ち組、負け組の対立抗争を経て、現在に至るまでの歴史を辿れば、その回答が自然にわかるのではないかと思った。
 児玉が学生時代に寄稿していた月刊誌「流動」や「現代の眼」は、総会屋系雑誌と呼ばれ、原稿料は安かった。それでもパウリスタ新聞の月給は日本円に直すと七千円程度、五、六万円の原稿料は児玉にとっては大きな収入源になった。原稿料は不定期収入だったが、雑誌に記事が掲載されると二、三ヶ月は家賃の支払いには困らずにすんだ。
 児玉の生活が落ち着くのはトレメ・トレメを出た頃からで、健康は完全に回復した。
 バックナンバーを読み漁り、その中から取材をして日本に送稿すれば雑誌に掲載されそうなニュースを選び出した。土曜日、日曜日はほとんどその取材にあてた。テレーザのアパートに通う回数も自然と減っていった。
 通訳を務めてくれるマリーナとの時間が自然に増えていった。

 戦後移住は一九五三年から再開された。一九五三年二月十一日早朝、さんとす丸はリオデジャネイロ港のアルマーゼン八(八番倉庫)前に、ゆっくりとその船体を寄せた。同船は大阪商船三井(三井OSK)の新造船で、処女航海だった。この船にはアマゾンへ入植する日本移民十八家族が乗り込んでいた。その他にも四人の戦災孤児移民も乗船していた。
 毎日新聞からの転載だが、その模様を一九五三年一月八日のパウリスタ新聞は次のように報じている。
「海の彼方へ夢はらむ 船出はかく華やか!戦後初の移民風景
 孤児送る孤児の一群、南の花嫁も一人
[神戸港]ブラジルに新天地を求めて渡航する人たちを乗せた移民船、大阪商船の新造貨客船さんとす丸は二十八日午後四時、あわただしい暮の祖国をあとに洋上迎春の用意も整えて出帆した。
 乗客は、第一回アマゾン計画移民として、全国十八府県十八家族五十四名と、ブラジルへ養子になって行く埼玉の戦災孤児四名ならびに、サンパウロで農場を経営している茨城県出身の丸岡東氏四十三歳の元に嫁ぐ同県北相馬郡北文間村海老原多美子さん(三二)一行の壮途を送るため「蛍の光」のメロディーが吹奏され、岸田兵庫県知事、衆議院議員上塚司、原日伯協会常務理事、その他多数が突堤で見送った。
 そして、さんとす丸は四十五日間の航海を無事終えて、一九五二年二月十一日、リオデジャネイロ港に入港した。
「着いたぞ 広い天地 運命の箱開く 視聴集まる 移民第一陣色とりどり家族模様」(一九五三年二月十三日付パウリスタ新聞)(つづく)


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