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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(48)

ニッケイ新聞 2013年7月20日

 既述の憩の園の聞き取り調査の中には、次の様な話も記されている。
 女性S「当時私たちはアルバレス・マッシャードへ行って居りました。そこで百姓をしておりました。いとこが街で、仲買商のところに勤めていて、ポルトガル語の新聞で色々な情報を見て、日本は勝ってなんかいないンだ、ものすごい爆弾のため惨憺たるものだから、と。勝ち組は、日本は神風が吹くンだから、絶対負けないンだから、
負けたなんて言うのは非国民だ、と。私たちは、そんなことを言ったために、とうとう非国民にされちゃって。夜、いつの間にか、家の窓に『国賊』って書いて行かれました」
 位牌事件などという呪詛めいた脅しもあった。
 1946年3月の初め、パウリスタ延長線マリリアで起きた。同地の敗戦派25人の名前を、位牌の一つ一つに、
「俗名何某 昭和二十年八月十五日逝去」
 と墨書して並べ、その背後に警告書を貼り、写真に撮って何十枚も焼付け、アチコチに配布した……のである。
 警告書には、彼ら25人は前年8月15日、日本人としては死亡したと見做し、弔意を表すとし、その亡者が皇室の尊厳を傷つけ、御詔勅を偽造した故「自決せよ」と迫り、「南無阿弥陀仏、仏心会同人」と結んでいた。仏心会同人というのは架空の名である。
 その名前を書かれた一人が、数枚の手記を残している。それによると、被害は、これだけでない。終戦直後の9月9日には、脅迫状が舞い込み、その後、電話と手紙で10回くらい同種のことがあり、翌46年3月3日、この位牌事件で亡者にされた後も、同月6日頃から自宅への投石、投糞が数回続いた。投糞では「始末に困った」という。
 この手記の執筆者は、当時、パウリスタ延長線の邦人商業界では屈指の存在であったカーザ・オノ西川商店マリリア本店の代表者、西川武夫である。西川は敗戦認識の啓蒙運動の推進者であった。
 後述するマリリアで起きた2回の殺傷事件では、西川は、2回とも、襲撃者から目標にされている。
 それ以外に1、2度、不審人物が自宅の前庭に侵入したり、裏から内部を窺っていたりしたこともあった。

 皇室の尊厳を侵し国家を冒涜する

 サンパウロの文協の移民資料館に、脅迫状の写真が幾枚かある。次の様な内容である。(原文のママ)
「君は畏れ多くも皇室に対し奉り不敬の言語を弄したる罪は罪悪の極に達す。依って必ず我々の手で君の命は成敗するから今より首を洗って待って呉れ給え」
「君は日米終戦後、敗戦を唱え各所に皇室の悪口を言外するを聞く。依って我々の手で天罰を與えるから命のある中より首を洗って死後恥かしくない様にしてゐろ」
 文中、皇室に対する不敬の言語とか悪口というのは「ハイセンが、皇后がマッカーサーの妾になっているといった類いの暴言を口にしている」という噂を指していた。
 同時に「日の丸なんて、女房のマタグラに白い布を挟んでおけば、簡単にできるとハイセンが言っている」という噂も流れていた。
 これに戦勝派が「皇室の尊厳を侵し国家(日本)を冒涜している」と激昂した。
 ハイセンとは(前にも記したが)敗戦派のことである。戦勝派は彼らを「ハイセン」とか「ハイセン野郎」「ハイキ派(敗戦祈願派)」と罵り、敗戦派は戦勝派を「狂信者」「つける薬がない」「盲動者」と蔑むようになっていた。(つづく)