ニッケイ新聞 2013年7月23日
桂首相兼外相は1913年1月13日に外相公邸へ渋沢栄一、高橋是清(日本銀行総裁)ら30余人を召集して「伯剌西爾拓殖株式会社」の創立委員会を行った後、3月10日には東京商業会議所で創立総会を開き、渋谷を議長にして会社定款を可決した。
最高顧問に大浦兼武、渋谷栄一、相談役に近藤廉平、中野武営、取締役は渋沢の推薦によって子爵・酒井忠亮、男爵・横山隆俊、川田鷹、神谷忠雄、藤崎三郎助、青柳郁太郎、森田彦李らが選任された。取締役の中から、後日互選で、会長には酒井忠亮(さかい・ただあき)子爵、専務取締役には川田鷹が就任した。
会長の酒井忠亮(1870—1928)は越前敦賀藩主・酒井忠経の長男で、東京出身の明治から昭和初期にかけての華族だ。明治34年に貴族院議員となり、横浜正金銀行、高砂商事の役員などを務めた。
このメンバーの中でも、高橋是清(1854—1936年、東京)は別格の存在感を持つ。仙台藩足軽の家で育って13歳にして米国留学を熱望し、横浜の米国人に「合衆国の学校に通わせてやる」といわれて書類に署名したら、奴隷売買契約書だったという逸話を持つ。
オークランド等で奴隷労働をする中で苦労して英語力を身に付け、1869年に帰国した。1889(明治22)年、36歳で官僚の経歴を捨ててペルーに渡り、私財をつぎ込んで「日秘鉱業株式会社」を起こして技師や鉱夫ら17人を派遣してカラワクラ銀鉱採掘を試みたが、実はそれが廃鉱であったことが分かり、失意のまま帰国するという、南米とは古い縁を持っている。
高橋は帰国後に日本銀行に入行し、日露戦争時には日銀副総裁として戦時外債公募に成功した立役者となり、1905年に貴族院議員に勅選(天皇が自ら選ぶこと)され、1911(明治44)年から1913年まで日銀総裁を務めた。その後、5回も大蔵大臣を、1921年からは総理大臣まで務めた。
高橋是清と南米とのつながりで大きいのは、なんといっても政治家・上塚司(1890—1978、熊本)を育てたことだ。アマゾン移植民事業を進め、開拓に必要な人材を育てる高等拓殖学校を創立した衆議院議員(当選7回)だ。と同時に、上塚植民地創設者の上塚周平の従兄弟にあたり、ブラジル移民と縁の深い血筋を持っている。
『高橋是清自伝』は本人が口述したものを、上塚司が筆録して完成させたものだ。上塚は1920年に衆議院に初当選した後、次の選挙で落選し、その直後に高橋是清に拾われて商務大臣秘書官、大蔵大臣秘書官などを務め、是清に深い恩義を感じ政治家としてのスケールの大きさに私淑していた。
上塚が進めたアマゾン移民に関しても、高橋是清が裏で支援したのかもしれない。
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高橋是清がペルーで鉱山開発をしようとした1889年は、ブラジル軍艦アルミランテ・バローゾ号が横浜に立ち寄り、それに乗って大武和三郎が渡伯した年だ。笠戸丸の19年前、まさに移民史の〃神代の時代〃の人物であり、のちに帰国して語学力を活かして在京ブラジル公使館に務め、日本初の本格的『葡和辞書』編纂で有名になった。
移民を開始した水野龍にしても、サンパウロ州政府と官有地無償譲渡契約を結んだ青柳郁太郎にしても、大武和三郎の世話になった。当時、ポ語の公文書作成ができる唯一の人物だったからだ。
本紙連載をまとめた『大武和三郎 辞書編纂と数奇な生涯』(堀江剛史(よしふみ)、08年、人文研、以下『大武』)には、《水野龍を始め、移民事業に携わった立場の人間からすれば、(ブラジル)公使館で通訳官として勤務する大武の存在は、ブラジルを知る唯一無二の貴重な情報源だったに違いない》(33頁)とし、青柳郁太郎は《大武の生涯を通じた友人だった》とある。(つづく、深沢正雪記者)