ニッケイ新聞 2013年7月25日
ペレを擁してワールドカップ(以下、W杯)2連覇(1958、62年)を果たしたときのブラジル代表(セレソン)の名サイドバック、ジャウマ・サントスが23日、入院先のミナス・ジェライス州の病院で腎不全のため亡くなった。84歳だった。24日付伯字紙が報じている。
1929年2月にサンパウロ市で生まれたジャウマは、プロとしてのサッカー人生を1948年にポルトゲーザではじめた。
52年にセレソン入りし、54年のW杯スイス大会では、右サイドバックのレギュラーとして全試合に出場。ベスト8に貢献した。
58年、ペレを擁してW杯初優勝を果たしたスウェーデン大会では、レギュラーの座をデ・ソルディに奪われたものの、決勝のスウェーデン戦で活躍し勝利に貢献した。
また、レギュラーに復帰した62年のW杯チリ大会では全試合に出場、開幕間もなく負傷して欠場したペレの穴を埋めた好選手の1人として活躍した。
当時のセレソンにおけるジャウマは、頑丈な体を生かしたマークで守備を固める一方、鮮やかなクロスで左サイドバックのニウトン・サントスと共に攻撃の起点となり、ペレやガリンシャといったサッカー史に残る強力攻撃陣を支えた。
1963年には国際サッカー連盟(FIFA)の選ぶ世界選抜チームにブラジルから唯一選出され、アルゼンチンのデスティファーノ、ソ連のレフ・ヤシンといった伝説的選手と共に世界代表としてイングランド代表との親善試合にも出場している。
クラブ・チームでは、58年にパルメイラスに移籍し、68年までプレイ。その間、サンパウロ州選手権3回(59、63、66年)、全国選手権の前身にあたるタッサ・ブラジルで2回(60、67年)優勝し、ペレの在籍した黄金期のサントスの最大のライバル・チームの一員として活躍した。
66年のイングランド大会でW杯4度目の出場を果たしたジャウマは、39歳までセレソンに召集され、ブラジルではじめてセレソンで100試合以上(計111試合)出場した選手にもなった。
72年にアトレチコ・パラナエンセで現役生活を終えた後はミナス・ジェライス州ウベラーバのスポーツ局で少年サッカーの指導をしたりして元気に活動していたが、重度の肺炎と呼吸障害のため、今月1日から同市の病院に入院していた。
ブラジルサッカー連盟(CBF)は、同連盟の試合でジャウマの追悼を行う意向を示している。