ニッケイ新聞 2013年8月3日
ここでは親に逆らう罰として「ヤイト」がすえられます。アハハ・・・お灸ねえ。お灸で思想的なものが変えられるなら、世の中、苦労しないんじゃないんですか。ハハハ。しかし、実際にはこうした罰を与えられた人が結構いるようです。鍼灸師からきいた話ですが、親から罰としてヤイトをすえられた痕跡が患者さんの身体にはよくみられるそうですからね。
父親は息子の背中に玉をいくつか乗せると、線香で火をつけた。ハルオは線香の熱さが肌に近づくのを感じたとき、学校の友達には絶対知られてはならないと思った。そのうちモグサにつぎつぎ火がつけられて、ハルオは背中をこわばらせた。モグサが焼けていくにつれて皮膚もじりじり焼けた。ハルオはヤイトがその目的を果たせないように、心を硬くして耐えた。ヤイトが灰だけになると、秀雄は背中を入念に拭ってやりながら、「ハルオ、日本人にならなければならんぞ」
父親は「謹慎」を言いわたし、ハルオは家から追い出されます。何というか、キンシンという言葉、それもローマ字つづりの「kinshin」にはビックリしました。というより、一瞬何のことか分かりませんでした。ブラジルの農村でいき続けていたんですねえ。まあ、父親としては倉庫で寝ればいいと考えたんでしょうが。ハルオは予想外の行動に出ます。
子どもはいつも親の意表をつくものなんです。家出を考えて、最初日本人の友だちを訪ねていって、父親同士の面子はつぶせないと断られ(日本人のやりそうなことだと苦笑)、ピエトロというブラジル人の同級生の家で保護されます。ブラジル人の常識では、子どもを家から追い出す親など考えられない。想定外のことなんです。我が家でもお父さん、しょっちゅう、「お前みたいなもん、出て行け」とやりました。成長した子どもたちは、親しか頼れない子どもには絶対いってはならない言葉だと述懐していますが、お父さんは馬耳東風、痛痒を感じないようです。
戦争が始まり、日本語教育が禁止され、学齢期の子どもたちは、かくれて勉強しました。日本語は日本精神を涵養するものですから、ね。
秀雄はボランテイア教師として訓えていた。政府によって日本学校に行くことを禁じられた子どもたちが、ガイジンのように育ってもらっては困るのだ。足を忍ばせて警官が近づき、板の隙間から覗き見すると、子どもたちが座って真剣に、熱心に先生のいうことを聴いていた。「日本人たちを洗脳しているんだ」と警官の一人がいった。子どもがこんなに行儀いいはずがない。男たちがなだれ込むと、秀雄は抵抗もせず、子どもたちには罪がないといい、密告したのは誰かと訊いた。もちろん、警官たちは答えない。子どもたちのノートと先生の本2冊を押収した。
軍服の男たちは、ノートや本のページを破り、道に小さな紙の山を作ると火をつけた。子どもたちは声もなくそれを見つめていた。
子どもたちは成長し、田舎から出てきた秀雄はコンデ街でバザールを開き(4章)、長女のスミエは店番を手伝っています。バザールではいやなガイジンの嫌がらせが語られます。
気取って道をゆく一人の痩せて背の高い、エレガントな洋服を着たが男がだまったまま客のように店に入ってきた。しかし、その目つきや態度から買い物にきたのでないことがすぐ分かった。隅から隅まで眺めまわし、小物をとりあげては、まるで黴菌の感染をおそれるようにすぐさま棚に戻すのだった。扇子をとりあげて開くと、わざとらしく目を凝らして、書かれている文字をみた。
それから低い声で、とはいうけれど、周囲のみんなに充分聞こえるような声で、「こんな、落書きは禁止しなければならん。ここは日本じゃないんだ」。注意しながらみていた秀雄は近づくと、
「何かご用ですか」
男は刃のような視線を向けた。
「見ているだけだが・・・イカンかね」
「いえ、それはもう・・・」
男はまた視線を扇子に戻した。
「わしは、政府はこんな落書きは禁止しなければならんといっていたんだ」
秀雄は出ていってくれと頼み、男は、客としてここにいる権利があり、出て行かないといった。しかも、住んでいるのはブラジルで、さらに店は、マノエル・デ・ノブレガやアンシェッタというイエズス会の僧が創立したサンパウロ市にある。さらにいえばイエズス会僧はポルトガル人で、日本人がブラジルの地に店をもてるように、純正なブラジル人である自分は、店にとどまる権利があるはずだ。(つづく)