ニッケイ新聞 2013年8月3日
またも日本人狩り
死亡1、未遂1という事件に、検挙千数百人というのは、馬鹿馬鹿しいほどの多さであった。
この程度の事件に、それだけの人数が関係することなど、物理的にも絶対ありえない。
しかも容疑を明示しての逮捕ではなかった。一方的に、高圧的に荒々しい言葉で、追い立て、留置場に追い込んだのである。大掛りな狩猟で、獲物の大群を柵の中に追い込む様(さま)に似ていた。戦時中の日本人狩りが、またも始まったのである。
獲物にされた日本人たちは、わけも判らず、警官の命ずるまま動き、気がつくと、鉄格子の中に居た。彼らの殆どが、何故、自分が、こういう扱いを受けているのか、見当もつかずにいた。
しかも、狭い場所に大勢の人間が押し込められたため、すし詰め状態になった。
なおオールデン・ポリチカは、実はこれより少し前、臣道連盟の本部・支部の役員名簿を、その理事たちを騙して、入手していた。(連盟は、既述の様に、精神修養団体としての認可申請を当局にしていた。が、なかなか、回答がない。オールデン・ポルチカが反対していると判り、複数の理事が訪問、理解を求めた。すると、後で人を介して「役員名簿を出せば、認可が得やすい」と伝えてきた。そこで名簿を提出した)
その名簿が、検挙に利用されていた。
以上から、オールデン・ポリチカは、臣道連盟の役員を根こそぎ逮捕する準備をしており、実行する機会を待っていたことが判る。
その、待っている所に事件が起きた。チャンスとばかり、他の警察の協力を得て、大検挙を行った──のである。しかも即座に、事件を臣道連盟の組織的テロと断定、新聞発表したのだ。
右が、臣道連盟の名が歴史上初めて、突如、表面に現れた経緯である。(トッコウタイについては別記)
オールデン・ポリチカは、4月8日、誇らしげに「シンドウレンメイは壊滅」と発表している。それが、事件発生以前からの目的だったのだ。
臣連以外の戦勝派も検挙したのは、戦勝派全体を潰そうとしたためである。
これは、認識派の代理人としてオールデン・ポリチカへ入り込んでいた藤平・森田の狙いに、ピタリ符合していた。
オールデン・ポリチカや他の警察では、拘引した者を取調べの際、まず「日本は勝ったか負けたか?」と訊き「負けた」と答えると、ドンドン釈放した。「勝った」と答えると、留置を続けたり、一旦釈放後、繰り返し拘引・留置したりした。
さらに、留置した者を辱めと虐待と拷問で攻め、日本の敗戦を認めるよう強要した。臣道連盟の幹部には、襲撃が臣連の犯行であると自白するよう迫った。襲撃の実行者には、自身が臣道連盟員であり、連盟の命令でやった、と供述させようとした。
襲撃者、臣連との関係を否定
ここで、認識派史観の洗い直しに戻る。
同Ⅶは「テロを計画・指揮したのは臣道連盟で、特攻隊を組織して、やらせた。臣連は秘密結社で、テロ団である」としている。
明らかにオールデン・ポリチカの発表に基づく新聞記事を、そのまま転用しているのだ。
しかし、すでに記した様に、押岩嵩雄は臣道連盟本部に理事長の吉川を訪れ、協力を依頼、断られている。そこで新屋敷と共に、臣連その他の戦勝派団体には属さぬ有志により、決起組を構成している。
山下博美は「自分達の意志でヤッた」、日高徳一は「連盟支部の青年部に属していたが、連盟とは関係なく行動した」と話している。
蒸野太郎は「ワシの行動は、誰かから命じられたものではない。自分の意志によるものだった。胸の中に俺がヤラナケレバ……という波動が生まれた。天から与えられた使命だと思ってヤッた」と語っている。
いずれも、筆者が当人たちから直接聴いた言葉である。
皆「臣道連盟は関係なし」と証言しているのである。彼らが真実を話していることは、その表情、眼をみれば、よく判った。(つづく)