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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第131回

ニッケイ新聞 2013年8月6日

 ミッシェルまでは十分もしないで着いてしまう。児玉は意を決し言った。
「ナモラーダ(恋人)ができたんだ」
「それで……」テレーザは何事もなかったように聞き返した。
 児玉が躊躇している間に、タクシーはミッシェルに着いてしまった。タクシーを降りようとするテレーザにアパートの鍵を渡した。
「時々でいいから、アパートに来て。トニーニョも喜ぶから」
 こう言い残してテレーザはミッシェルに入っていった。少しだけ精神的な負担からは解放されたような気分だった。
 次の週末はサントスに取材に行く予定になっていた。沖縄出身の勝ち組の一人が取材に応じてくれた。その取材が終わり、サントス港が見える海岸線のレストランで食事をすることになった。
 魚の料理を食べワインを飲み、かなり酔いが回ってきたところで児玉は恋人として、これから付き合ってほしいと、マリーナに告げた。マリーナは冗談だと思ったのか、笑いながら聞き流していた。
「本気で頼んでいるんだ。恋人がいないのなら付き合ってほしい」
 真顔で児玉は言った。児玉が真剣なのがわかると、マリーナはワイングラスをテーブルに置いた。トレメ・トレメの女性関係を問い詰められるのではないかと児玉は反射的に思った。しかし、彼女は児玉が予想もしていないことを尋ねてきた。
「日本に恋人はいないのですか」
「いない」即答した。
「本当にいないのですか」
 児玉はブラジルに来る直前に別れた朴美子のことを告げ、日本には恋人がいないことを説明した。そして、もう一つ伝えなければいけないと思ったのは、ブラジルに永住するつもりはないことだ。
「二、三年で日本に戻るつもりなんだ」
 その理由も彼女に告げた。
 ブラジルに永住する意思がないということより、日本に恋人がいないという事実がわかり、マリーナは恋人として付き合うことに納得してくれた。

 「楽園」訪問

 金子幸代は銀行からの融資、自分の貯金、友人からの借金で五百万円を用意した。そのうち三百万円が総連への寄付と共和国の訪問旅費だった。
「こんな大金を納めているのに、家族がどこで暮らしいるのかさえも教えてくれないんだから、白徳根が言っていたことはみんな事実なんだろうよ」
 手続きを終えて、後は出発の日を待つばかりの仁貞が苛立ちながら言った。長男の容福はすでに死んでいると半ば諦めているものの、やはり誤報であってくれればという思いも、心の片隅には残っているのだろう。
「オモニ、絶対に白さんの名前は出してはダメ。日本にいる時から他人の名前は出さないように心がけていないと、共和国でうっかり名前を出せば恩を仇で返すことになるのよ」
 幸代はきつい口調で母親の仁貞を諌めた。そうでなくても仁貞は自分の思いを神奈川県の総連職員にぶつけ、嫌われているのだ。
 手元に残った二百万円を現金で持っていかせるか、あるいは一部は品物に替えて持たせるか、幸代は迷った。
 幸代は母親を残して、一人で白徳根と会って共和国の実情を聞いてみることにした。白徳根の回答は明確だった。
「現金も品物もできる限り用意して置いてくればいい」
 家電製品は電気のある生活をしているかどうかわからないので次の機会にして、衣類、食料品、医薬品を用意するように助言してくれた。衣類は日本では使えないような古着でも、共和国では十分に使える。知人から可能な限り集めて持って行った方がいい。トランジスタラジオなどは電池がなくなれば使えなくなるし、公安当局を刺激し、トラブルの元だから避けるようにと注意された。(つづく)


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