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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(61)

ニッケイ新聞 2013年8月8日

 脇山事件から、しばらく後、8月頃、コチア産組の下元健吉を狙った3人の若者が、ピニェイロス区の組合本部に接近、警戒中の警官に本部近くのバールで逮捕された。
 パウリスタ延長線ツッパンの上崎孝一、水島功、ルセッリアの助川務であった。上崎、水島は、先に記した日高の話の中に出てくる「同志に誘い入れたかった仲間」である。彼らも、日高同様、臣道連盟の青年部に属していたが、連盟とは関係なく動いていた。
 上崎は、ずっと後年、日高に「何故、我々を誘ってくれなかったのか」と言ったという。

 翌1947年1月6日(先に古谷重綱が襲われたのと同じアクリマソンで)森田芳一のクニャード(義兄弟)誤殺事件が起こった。
 襲撃者はパウリスタ延長線キンターナから出聖した蒸野三蔵(太郎の弟)、そして本稿では既出の三岳久松である。
 押岩によると、二人は、キンターナで新たに確保した同志であった。
「3人で話している内、もう一度サンパウロでヤロウということになり、相手は、ワシが森田芳一を……と言って、そうなった」という。
 「森田を標的に選んだのは何故か? 踏み絵の件か?」と訊く筆者に、押岩は深く頷いた。当時、情報がキンターナまで届いていたのである。
 この森田襲撃の折も、押岩はキンターナに残り、二人が出聖した。サンパウロでは3カ月ほど洗濯店で働きながら機会を待ち、その日、森田宅に向かった。が、間違えて森田のクニャードを射殺してしまう。
 それから61年後の2008年、三岳久松が89歳で、サンパウロで健在であった。
 三岳は、決行に至る経緯を詳しく筆者に話してくれたが、臣道連盟との関係は、明確に否定した。
 「誰かから命令されて、やったのではなく、全く自分の意志でやった。ワシの兄弟は臣道連盟に入っていたが、離れて暮らしていたため、聞いていなかった。第一、ワシは臣道連盟なんて知らなかった」

 オールデン・ポリチカ、敗北

 以上の、四月一日事件を含めて、サンパウロ市内で起きた襲撃事件を、オールデン・ポリチカはすべて臣道連盟の犯行であると決め付けた。
 しかし、これは数年後、サンパウロ中央裁判所(在プラッサ・ダ・セ
ー)によって、アッサリ否定された。
 オールデン・ポリチカの調書に基づいて、検事が、臣連本部の理事10名を起訴しようとしたところ、裁判所が受け付けなかったのである。
 臣道連盟と襲撃事件を関係づける裏づけがなかったためである。
 この国では、裁判所が受け付けなければ、起訴はできない。
 これとは別に、検事は、検挙した連盟員を主とする四百数十名を、起訴しようとしたが、成功していない。
 検察が控訴した事実もない。(襲撃実行者は、無論、起訴され、有罪判決を受け、服役した)

 話は少し変わるが、臣連本部の役職員、支部の役員、その他戦勝派多数に、1946年8月、行政措置として、国外追放令が下ったことがある。
 オールデン・ポリチカは、四月一日事件以後、連盟員その他を大量に拘引・留置、拘置所送りとしたが、その一部81名がアンシエッタ島へ隔離されていた。内80名の国外追放処分が、州政府治安当局の申請により、ガスパール・ヅットラ大統領によって裁可されたのである。80名中約60名が連盟員であった。
 しかし、この追放令は実行されず、1950年代末から60年代にかけて、大統領令により、事実上、取り消された。

 以上の如くで、臣道連盟犯行説は、司法的にも行政的にも否定されている。オールデン・ポリチカは敗北したのだ。その内部に入り込んでいた藤平、森田も同じである。
 理解しがたいのは、認識派が、以後も同史観Ⅶに固執したことだ。不起訴も控訴断念も国外追放処分の取消しも黙殺、
「テロを計画・指揮したのは臣道連盟で、内部に特攻隊を組織して、やらせた。臣道連盟は秘密結社で、テロ団である」
と、60年以上も言い続けているのである。しかも、その確たる裏づけは示していない。(つづく)