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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第135回

ニッケイ新聞 2013年8月10日

 二人の案内員の手前、そう言うしかないのだろうと察して、仁貞は家に案内するように言った。しかし、寿吉は「ここからは遠いし、同志たちが用意してくれたこの場所で話は十分にできる」と下手な役者が台詞を棒読みするような口調で言った。
「何を言っているんだい。夫婦が十七年ぶりに会ったというのに、自分の家にも連れて行かないつもりなのか。この人でなしが……」
 仁貞は泣きながら夫を激しく詰った。その激しさに二人の案内員は煩わしいと思ったのか、タバコを吸いに席を外した。仁貞は内心しめたと思ったが、帰りの船のなかで、他の団員も案内員は同じ手口で席を外していたことを知らされた。案内員はわざと一瞬だけ席を外し、自宅まで行くには特別な報酬がいることを家族から訪問団に告げさせてていたのだ。
 文子がその隙に仁貞に告げた。
「なんでもいいから、あの二人に日本のモノをあげて。そうすれば自宅に行けるから」
 タバコを吸い終えて二人が戻ってくると、自分の着替えが入った小さなトランクからタバコを二カートン取り出して、案内員に渡した。
「あんたたちをこんな年寄りに付き合わせて申し訳ないと思っているよ。これで少しは機嫌を直しておくれよ」
 二人は礼も言わずにタバコを受け取った。
「せっかくここまで来たんだ。どうかこの二人が住む家でお茶の一杯もごちそうになり、日本に帰国したいもんだ。あんたたち、老い先短い私の頼みを聞いてはもらえまいか」
 仁貞はワイロで二人が零落できるとわかると、そこから先は大胆だった。案内員は金寿吉の家に行くことを認めた。
「行くのは認めるが、夜はここに戻って宿泊してもらいますよ」
 平壌から同行してきている案内員が言った。仁貞は集会所の段ボールを自宅まで運ばせたいと言うと、信川の案内員がすぐにリヤカーを用意させた。
 金寿吉と文子、そして段ボールを積み込んだリヤカーが先に出発した。
 案内員と仁貞は再び車に乗り込み、金寿吉の家に向かったのはそれから一時間後だった。集会所から家までは十分もかからなかった。茅葺屋根の掘立小屋に二人は住んでいた。昔、横浜に住んでいた頃の家よりもさらに貧弱な家だった。電気も引かれていなかった。かまどには火が残っていた。薪でメシを炊き、料理を作っているようだ。
 家に入ると文子がかまどに鍋をかけて料理をしていた。台所と一間だけの粗末な家なのに、二人の案内員も入ってきて、地蔵のように座り動こうとしない。一枚しかない座布団に平壌からきている案内員が座った。地位は彼の方が上なのだろう。
「文子、便所はどこにあるんだい。この年になると行く回数が増えて困るんだよ」
 便所は部屋から出たところに作られていた。便所に入ると仁貞は首から下げ肌身離さず身につけている財布から百ドル紙幣一枚を取り出し、小さく折りたたんだ。
 文子は案内員が来ることを想定していたのだろう。酒と肉料理を用意していた。文子の料理を手伝うふりをしながら、二人の案内員を集会所に戻す手立てを考えた。貧しくて案内員の腹を満たすだけの酒も肉も台所にはなかった。
 仁貞は文子に清津港で換金した現金を渡し、すぐに酒と肉を買いに行かせた。現金があれば調達はできるようだ。仁貞は二人に酒を飲ませ続けた。頃合いを見計らって、段ボールの一つを広げ、中からきれいに包装された小さな包み二つを取り出した。
 座布団の上にふんぞり返っている案内員のところに行った。
「今日は本当に年寄りの無理な注文を聞いてくれてありがとう。心から感謝しているよ。これは私の心ばかりのお礼さ。受け取っておくれ」
 時計のケースを一つ渡した。地元の案内員のところに行き、彼にも「あんたにも苦労をかけたね」と労をねぎらう言葉をかけながら包みを渡した。(つづく)


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