ニッケイ新聞 2013年8月13日
百年前、レジストロ地方の三カ所に拓かれた「イグアッペ植民地」——この小さな集団地から、驚くほど多彩な人物がコロニアに輩出された。これは「明治の日本」という時代を象徴している。それだけ日本からの期待を一身に背負っていたのだろう。世界に伍して立ち上がろうともがいた明治の日本人が、世界とどう相対していくのか、どう自らの存在を確立していくのか——そんな迷い多き状況の中で試行錯誤した歴史が、レジストロ地方の大地にはっきりと刻み込まれている。明治の日本人はまるで、大きな、大きな世界地図に虫ピンを刺すように、地球上の最も遠くて、不便な地点に理想郷を求め、「日本人村」を作ろうとした——むしろ、遠いがゆえに明治の日本人の果て無き夢がそこに結晶しているかのようだ。でも、多大な期待が込められていたからこそ、現実という大きな壁が立ちはだかる運命にあった。
「イグアッペ植民地」はもちろん、東京シンジケートの後身「伯剌西爾拓殖会社」や「海外興業株式会社」に関する移民史上の記録は終戦直後まで、まるで〃関所〃のように日伯両側で随所に現れている。ところが、不思議なことに1960年以降、ぱったりと頻度が減る。
たとえば『ブラジルに於ける日本人発展史』(上巻、1941年)には「海外興業株式会社の業績」という一節が設けられ10頁余りも記述されているし、下巻(1953年)にいたってはイグアッペ植民地について30頁も書かれている。『移民四十年史』(1949年)にも「イグアッペ植民地開設の契約成る」との一項目が設けられ随所に説明が入る。
しかし、移民史の定番資料であるはずの『ブラジル日本移民70年史』(同編纂委員会、斉藤広志委員長、1980年)は321頁もあるが、明治の著名人が多数関わる「桂植民地」の名前すら出てこない。戦前移民の大半を日本から送り出したはずの「海外興業株式会社」もごく僅かだ。
単に既出の移民史に詳述されているから省かれた可能性もあり、事実関係は明らかではない。とはいえ、勝ち負け問題に関して抽象的な記述に終始した『70年史』は、編纂姿勢が〃臭いものにフタ〃的だと日本側研究者から批判が出たほどで、そのような編集方針によって省かれた可能性は否めない。
同様に、452頁もある『80年史』でも「桂植民地」はわずか7行(53頁)で済まされ、「青柳郁太郎」「海興」もあっさりだ。最初の日本人集団地、それを作った人物、事業体がなぜその程度の扱いなのか。やはり、これは意図的なのか——との疑問を抱かざるを得ない。
セッチ・バーラス植民地に入植したレジストロに縁の深い輪湖俊午郎の追悼文集『日々新たなりき ある拓人の生涯(輪湖俊午郎)』(同刊行委員会、1966年)に、内山勝男(元サ紙編集長)が意味深な一文を寄せている。《思い出されるのは、輪湖俊午郎さんが、いつも語っていた「何を書かざるべきか」という言葉である(中略)言論の自由の中にも自から規制すべき態度が大切であることを輪湖さんは語っていたのだ》(185頁)。
戦争前後に頭角を現す多くの人材がレジストロ地方にまず入植しており、その意味でも移民史上、過小評価されるべき場所ではない。『70年史』『80年史』に書かれていないレジストロ地方の歴史に連なる部分には、戦後コロニアのリーダーが「書かざるべき」「掘り起こすべきではない」と思っていた何かがあったようだ。では、ぬぐい去ろうとした歴史とは一体何だったのか。(つづく、深沢正雪記者)