ニッケイ新聞 2013年8月15日
「青柳郁太郎はよく桂に来ていました。父とよく組合組織のことを話し合っていたのを覚えています」と懐かしそうに語るのは、1924年1月25日に桂植民地で生まれた柳沢嘉嗣(よしつぐ)ジョアキンさん(89、二世)=イグアッペ在住、3月13日取材=だ。初期の桂植民地を生の体験として語れる数少ない証人だ。
両親は共に長野県出身。父は農家の四男で喜四郎と言い、「『長男が跡取りだから、お前は自由にしていい』と親から言われ、ブラジルに探検、研究ぐらいの気持ちで渡った」という。
『二十周年写真帳』(安中安次郎、32頁)によれば、北佐久郡出身で1918年(大正7)年9月の博多丸で渡伯した草分けだ。
最初はレジストロに入植し、海外興業株式会社(海興、ブラジル拓殖会社の後身)から道を開ける仕事を請け負っていたが、それが終わり、「桂植民地に移って農協を作る手伝いをしてくれ」と海興から薦められ、1924年に桂へ移った。
その年にジョアキンが生まれ、《カンナ加工、ピンガ酒年千石を製造しつつ居らる。所有地五十町歩、特に甘薯に最適地なれば三町五反植付けあり》(『二十周年写真帳』32頁)とある。
長野県人会創立35周年『信州人のあゆみ』同刊行委員会、96年、73頁、以下『信州人』)によれば、《喜四郎の父青淵は、政府の要請によって一九一三年三月に東京で設立されたブラジル拓殖株式会社の創立委員長を務めた人である》とある。
ここで、また疑問がわく。伯剌西爾拓殖株式会社の創立委員長まで務めた「青淵」(せいえん)とは、いったい誰か?
明治の政財界の主要メンバーが揃った伯剌西爾拓殖株式会社の創立委員長まで務めたといえば、歴史上の有名人物であるはずだ。まず創立委員長を調べてみると《一九一二年一一月、渋沢は、伯拓創立発起会長に就任〜》(『実業家』59頁)とある。また「青淵」とは渋沢栄一の雅号だ。加えて当時、本名で「青淵」という政財界の有名人はいない。『信州人』の記述が本当だとすれば、もしや柳沢喜四郎は渋沢栄一の〃ご落胤〃(庶子)、もしくは養子ではないのか?
柳沢ジョアキンに改めて問い合わせると、「お祖父さんの名前は、確か春吉じゃないかな。『青淵』(せいえん)? 聞き覚えないね」というあっけない返答だった。『信州人』編纂委員長を務めた矢崎逸郎に問い合わせたが、ジョアキンの祖父はおろか、誰が「レジストロ支部」の歴史部分を書いたのかも定かではなかった。
レジストロ最古参の松村昌和さんの父栄治さんが書いたかと考え、昌和さんに確認したが、矢崎同様、執筆者も「分からない」とのことだった。『信州人』はわずか17年前に出版された書籍なのに——と歴史が失われていく瞬間を実感した。
念のため渋沢栄一記念財団の渋沢史料館(東京)に問い合わせてみると、「渋沢の子どもの中に喜四郎の名前は確認できない」とのことだった。
つまり、《喜四郎の父青淵》という記述は裏の取れない情報だ。「万が一」という可能性が残されていないわけではないが、ほぼ間違いだ。移民史を探っていくと、時々日本の有名人の子孫を名乗る人物がてくるが、資料を探しても今回同様に大半の確証はとれない。
柳沢の場合、単なるデマというよりは、渋沢栄一を敬愛するあまり「植民地開設に賭ける渋沢の気持ちを汲んで、その遺志を継承する子孫になったつもり」でいたものが、いつの間にか「子孫」として回りには伝わった——のかもしれない。柳沢喜四郎からそのような覚悟を周辺の人物が聞いていて、確証なしに『信州人』に記したのか。(つづく、深沢正雪記者)