ニッケイ新聞 2013年8月16日
東京シンジケートの代表青柳郁太郎は1912年3月にサンパウロ州政府と官有地無償払い下げと植民地建設の契約(コンセッソン)を結び、翌13年3月に東京で「伯剌西爾拓殖会社」を創立させた。
すぐに青柳は再渡伯し、5月には州政府と東京シンジケート間に結ばれた契約を伯剌西爾拓殖会社に継承する手続き(decreto no. 10.248 de 2 de junho de 1913)をし、6月にはレジストロ入りし、《州政府測量開始を確かめる傍ら、地帯一般の踏査に着手する事となった》(『発展史』下、13頁)とある。
これを文字通りに読めば、あれだけ綿密に南部3州を視察しておきながら、驚いたことに、肝心のレジストロ地方に関してはこの時点まで《踏査に着手》していなかった。つまり、地図上で選んで契約したようだ。
青柳は1913年6月にレジストロ入りし、州政府の測量の仕事を見守ったが、州政府による土地区分は遅々として進まなかった。《先決問題たる土地区分事務即ち州有地・私有地の区分を行ふ作業が意外に面倒で仲々捗らず、(中略)愈々政府が法律の規定により私有地の限界を定め、その余を州有地と決定せんとするに当たりては、紛議百出し、裁判所の判決を待たねばならぬ場合も多々発生し、之がため州有地の交付は著しく遷延した》(『発展史』下、14頁)
ここまで読んで、まったく同じ問題を抱えていた別の事例があったのを思い出した。連載19回で紹介した米国人企業家ペルシバル・ファルクァールだ。彼の〃帝国〃の両輪ともいえる2社「南伯鉄道」と「南伯材木・拓殖会社」が同じ問題を抱えていた。
パラナ州とサンタカタリーナ州境は、以前から境界線が曖昧でたびたび騒動が起きていた。奴隷の輸入禁止が始まった1850年以降、特に欧州移民がこの地域に大挙して入って、土地を巡る先住民との諍いも頻繁に起きて治安が不安定になり、なかば無法地帯のようになっていた。
1908年にファルクァールは連邦政府と、鉄道を敷設したらその線路の両側15キロ地帯の土地譲渡を受け、木材を伐採する契約(コンセッソン)を結んだ。ところが、実際には何年も前から住んでいたポッセイロ(占有者)があちこちにおり、立ち退かなかったため工事に支障をきたしていた。
全伯から4千人もの、一攫千金を夢見る荒くれ男の工事夫がサンタカタリーナ州に集まっていたにも関わらず、本格的な工事が始まらず不満が溜まり、不穏な空気が高まっていた。工事夫の多くは故郷に帰る金すらなかったという。
加えて、連邦政府が南伯材木・拓植会社へ無償土地譲渡契約を与えたことで、自らの土地所有権があやふやになった地元民が、カリスマ宗教指導者ジョゼ・マリアの指導で一緒になって1万人もの反乱軍を組織し、パラナ州とサンタカタリーナ州境で「コンテスタード戦争」(1912年10月〜1916年8月)という大規模な内乱を起こした。同戦争を特集した2012年2月12日付けエスタード紙には〃20世紀最大の内乱〃との見出しが踊っている。連邦政府軍7千人と両州の民兵2千人が鎮圧にあたったが、推計1万人の反乱軍の大半(死亡・行方不明約7千人)が鎮圧されるまで、4年間も血腥い闘争が続いた。死傷者は1932年の護憲革命よりも多い。
実は、日本移民が開始した1908年の前後はブラジルは、各地で次々に内乱を起こされた政府受難期だった。近隣州で戦争が起きている地域に、日本移民を植民させる危険性、それに伴う様々な噂が、当時の日本の新聞で書き立てられていたら、ブラジルへの移殖民希望者は集まらなかったに違いない。最初の桂植民地に移民が入った1913年11月は、まさにその真っ最中だった。(つづく、深沢正雪記者)