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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(69)

ニッケイ新聞 2013年8月20日

カフェランヂア方面
 
 ビリグイ方面で、火の手が上がると、それは直ぐ、同じノロエステ線の(始発駅バウルー寄りの)カフェランヂア方面に飛び火した。
 まず、7月17日、同じ日に、3件発生した。
 1件はカフェランヂアの平野植民地の歯科医、今井競(きそう)に対する傷害事件である。
 これについては、被害者の義弟と加害者の友人から、別々に貴重な話を聞くことができた。
 義弟の春名宏文によれば「今井は腹部を刺され負傷した。彼は敗戦を認識していたが、活動家ではなかった。だから、何故そういうことになったのか疑問だ」と言う。
 加害者の友人とは、戦後、コチア産組で理事や監事を務めた阿部牛太郎である。以下、同氏談。
「今井医師の診療所は、平野植民地にあった。
 事件の10年近く前、ワシの小学生時代のことになるが、当時、ワシは隣の第二平野植民地に居った。今井医師の診療所まで行ったこともある。
 その頃の遊び友達に、後藤敬士と佐久間一喜という二人の子供が居た。よく、木に登って小便飛ばしをして、遊んだものだ。
 その後、ワシの家族は別の土地へ転じた。後藤は平野植民地に移った。事件のことは、後年、ワシが現地へ行った折や別の機会に、関係者から聴いている。今井医師をやったのは、この後藤と佐久間だ。
 何故、そんなことをしたのか、直接本人たちに訊く機会はなかったが、後藤のソグロの及川義夫が『ワシが二人の前で、今井は戦勝派だったのに、簡単に敗戦派に変わってしまった。余りにも変わり身が早い。目を覚ましてやらねばならない、と話したら、二人がやってしまった。唆した結果になったので自首して出た』と言っていた。
 及川は、長いこと刑務所に入っていた」   
 阿部の一家は、元々、及川を頼って、その隣接地に入植しており、親しかった。ズッと後年、及川は刑務所を出所後、マウアに住む阿部を二、三度訪れている。その時、事件のことを話したという。
 
 カフェランヂアでは、今井と同じ日に、農産物の仲買商の楠庄平が射殺されている。同業の竹内豊次も狙われたが、無事だった。
 楠庄平は、朝、開店時に外で待っていた5人の男の一斉射撃を受けた。
 しかし楠や竹内は認識派といっても、襲撃の的に選ばれるような存在ではなかった。ために襲撃の動機は、認識問題を装った意趣返しではないか……という説も流れた。
 二人が営業していた仲買商というのは、アルマゼン・デ・セッコス・イ・モリャードスのことで、当時は「雑貨商」と訳されていた。
 地方では、どこの町にも、必ずあった店で、農業者に生活用品、営農資材を売っていた。
 農業者の生産物を収穫時、代金の代わりに受けとるという条件で、商品を掛売りしていた。
 生産物を受取ると、それを転売するので、自然、仲買商を兼ねる様になった。次第に、そちらの方が主になった。さらに、その生産物の加工業にまで手を広げ、事業を発展させるヤリ手もいた。
 このアルマゼン・デ・セッコス・イ・モリャードスの中から、財を成す者が多く出た。
 以下は、あくまで農業者側からの言い分だが、彼ら仲買商は、農業者の足元をみて、ずるい条件を押し付ける者もいた。
 無論、そんなことはしない人もいた。しかし仲買商であるだけで「百姓の利を盗んでいる」と、陰で言われるのが普通であった。「豊かな暮らしをしているのは、仲買商か戦時中に(利敵産業といわれた)繭や薄荷を生産した農業者だけだった」という言い伝えもある。  
 つまり、その利を盗まれた意趣返しではないか、というのである。
 阿部牛太郎は、こう語っている。
「竹内は、カーザ竹内という店をやっていた。何でも扱っていた。百姓の生産物を随分、安く買い叩いた……というので恨んでいる人もいた。楠木も同じだった。
 意趣返しで、狙われて
いることに気付いた竹内の息子が、これは怪しいと思うと、戦勝派という名目で、片端から警察へ密告(通報)していた」 この説は無論、竹内、楠側には心外であろう。右の「」内は、あくまで、そういう見方もあった、というに過ぎない。(つづく)