ニッケイ新聞 2013年8月22日
桂初入植の翌年1914(大正3)年には自治組織として「桂人会」が設立された。日本人会の嚆矢といえる存在だ。
『イグアッペ植民地創立二十周年記念写真帳』(1933、安中末次郎)には《当小学校はブラジルに於ける日本語小学校の嚆矢なり》と高らかに書かれている。桂人会の経営によって、1916(大正5)年2月創立され、1918(大正7)年には政府公認校となり、ブラジル教程の小学校にもなった。33年時点で邦人教師1人、ブラジル人教師は2人、生徒45人という陣容だった。
移民史的には、日本語学校の最初は1915(大正4)年10月にサンパウロ市のコンデ街に宮崎信造が作った「大正小学校」とされている。ここは最初の日本人街で、大正3年頃から《田頭甚四郎が3〜4人の子供にイロハを教えていた》とある。
日本人の「集団地」という意味で、都市部のものがコンデ街のような「日本人街」で、地方型のものが「植民地」だ。立地する場所の環境が違うだけで、移民集団が自分たちに必要なサービスを立ち上げていったという意味では同じ現象が起きていた。
大正小学校は都市型のものとして、個人の借家でこじんまりと始まった、いわば〃寺子屋式〃だ。1916年1月時点で生徒数10数人とあり、本格的な小学校になったのは、公認校になった1919(大正8)年、後援会組織が生まれた1920(大正9)年あたりからではないか。
桂小学校の場合は、最初から桂人会というコロニア団体が創立し、数十人の生徒という規模を持ち、直ぐに公認校になった。大正小学校より5カ月遅れで創立したとは言え、「本格的な日本語学校」という意味では事実上初といっていい。その後、平野植民地の旭小学校(1917年7月創立)などと続く。
さらに組合創立も事実上、草分けの一つだ。桂植民地産業組合(組合員20人)、レジストロ農業者産業組合(220人)が設立されたのは1928年3月23日だ。のちに大発展したコチア産業組合はそのわずか3カ月前の1927年12月11日に創立総会(83人)を行い、のちに双璧ともいえる存在になった南伯中央農産組合(49人)は桂より1年半遅い1929年12月だった。
半田知雄の『生活の歴史』によれば、《ブラジルで最初に日本人が建てたカトリック教会堂》(352頁)も、ここだった。
『イグアッペ—我々の歴史』を著したロベルト・フォルテスのサイト(http://robertofortes.fotoblog.uol.com.br)を要約すれば、27ロッテ(各25ヘクタール)に区分され、30家族が住んだ。桂植民地建設に献身的に協力した現地側要人としては、当時の群長ジェレミアス・ムニス(coronel Antonio Jeremias Muniz Junior)を筆頭に、ジョゼ・デ・サンターナ(coronel Jose de Sant´Anna Ferreira)、ルイス・ゴンザーガ・ムニス(capitao Luiz Gonzaga Muniz)、アウグスト・ローロ(capitao Augusto Rollo)らが挙げられるという。
1915年に最初の公式統計が取られ、すでに17家族によって3962アルケールも稲作が行われていた。翌1916年には25家族によって8840アルケールとなり、同時にフェイジョン、トウモロコシなども植えられ始めた。米はイグアッペ港から出荷され、大いに港の活性化に寄与したとある。
つまり桂は小さな植民地ではあったが、のちにレジストロ線やノロエステ線、パウリスタ延長線で本格化する植民事業の萌芽といえる存在であった。(つづく、深沢正雪記者)