ニッケイ新聞 2013年8月22日
以上の十年史の記事は、当時のポルトガル語の新聞記事の翻訳や阿部豊の手記によって構成されている。
ところが、筆者が2012年、現地を訪れてみると、意外なことが起こった。
まず、地元の文協の斉藤修三副会長が、
「私は事件後、ここに転住して来たが、そんな大暴動があったという話は、聞いていない」 と首を傾げたのである。
当時、騒ぎを目撃したという浅野多津夫という92歳になる老人に会うことも出来たが、やはり大暴動説を否定した。
「日本人が一人殺され、何人かが殴られ、兵隊が出動したが、重軽傷50数人などということはなかった」
と言う。
阿部宅の爆破も、
「花火だった。単なる嫌がらせ、と阿部の息子さんから聞いた」
と。
もう一人、騒ぎを目撃した西谷博という、やはり92歳の老人がサンパウロに住んでいて、その話を聴くこともできたが、同様の趣旨であった。
「騒ぎは、ツッパンから兵隊が50人くらい来て、街角に立つと収まった」 それでは、十年史に出てくる記事は何なのか……ということになる。
翻訳したポ語新聞の記事は作文としても、阿部は当時、同地の邦人社会の代表的存在で信用もあった人である。
その手記通りのことがあったのなら、地元の邦人社会に伝わっていない筈はない。
なんとも腑に落ちぬ話である。
続・ビリグイ方面
日本人による日本人の襲撃に、話を戻す。
ノロエステ線ビリグイ方面で、またも事件が起こった。
7月30日、ブラウーナの栄拓植民地の稗田鶴吉(50)が射殺されたのである。射殺者不明。
稗田はアルマゼン・デ・セッコス・イ・モリャードス、つまり農産物の仲買商を営んでいた。
その日、鶴吉は友人と馬で知人宅を訪問、帰宅途中、牧草地帯を歩いていた時、突如、狙撃された。
この事件に関して、同じ栄拓植民地にいた鳴海忠雄は、
「鶴吉さんは、認識運動には関係なかった。原因は、それではないと思う」
と語っている。
とすれば、遺族には失礼だが、一応、意趣返しの線も考えねばならない。
この鶴吉の次男の長之(タケユキ)が、2012年、80才を越して、スザノで健在であった。
氏は、
「父は植民地のためにも随分尽くし、皆から感謝されていた。そういうこと(意趣返し)は考えられない」
と、強く否定した。
8月11日、ペナポリスで藤原栄次郎が狙撃され負傷した。詳細は不明である。(栄次郎を悦次郎と記す資料もある)
8月中旬、またブラウーナで、事件が起きた。リオ・フェイロ沿岸の森林中で、戦勝派の過激分子の一団が、警戒中の州警兵に包囲され、銃火を交え、負傷一名を残して逃亡した──という。
十年史記載のその記事には、過激分子たちの指導者として松家元?という名が出てくる。
別資料だが「8月30日にブラウーナで田白タケジ夫妻が襲撃された」
という記述があり、これにも、襲撃者は「松家グループ」とある。
この、松家とは何者なのであろうか?
後ほど、もう一度名前が出るので、その折に考える。(つづく)