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伊藤園俳句でコロニア初大賞=マナウスの服部タネさん=元グヮポレ移民「アマゾンに感謝」

ニッケイ新聞 2013年8月24日

 「アマゾンに九十二才の初鏡」という句で、アマゾナス州都マナウス在住の服部タネさん(92、熊本)が第24回「お〜いお茶新俳句大賞」において、ブラジルからは初の大賞(40歳以上の一般の部)を受賞した。日本国内の応募を中心に165万211句から選ばれた。グヮポレ移民でアマゾン在住60年のタネさんは、「この年まで生きられたことの感謝を込めて、この句を作った」とほがらかに電話取材に応えた。

 「初鏡」とは正月の季語。タネさんは句の情景を「正月の祝いに、着物に着替えて家族の集まりに出る前に、心新たにして鏡をのぞいた心境。アマゾン生活60年、泣いたことも笑ったこともあったが最後は癒してくれた。そんなアマゾンに心から有難いと思ったときに、ふと浮かんだ句です」と説明する。グヮポレ移民ならではの諦観と感謝が込められている。
 タネさんは1954年に家族8人でロンドニア州トレーゼ・デ・セテンブロ(旧グヮポレ)植民地に入植した。マナウスから900キロ上流のポルト・ベーリョから、さらに数十キロ入った原始林だった。「ゴム移民で来たんだけど、肝心のゴムがとれなくてね。養鶏や野菜とかやってなんとか食べていた」という。
 ゴム栽培は植付けから収穫期まで数年間も収入がなく、グヮポレ移民30数家族のほとんどは家財道具、物品を交換し、営農資金、生活費に充てていた。後からその土地は強酸性土壌でゴム栽培に不適当だと分かり、ゴム植林計画の杜撰さが露呈、《ゴム植民として希望に燃えていた我々の前途は挫折した》(『グヮポレ移民五十年史』03年、85頁)との苦汁を飲んだ。野菜などの近郊農業に生き残りの道を模索して苦労し、《ベラビスタが地獄なら我々は幽霊と形容された》(87頁)ほど退耕者が多い状況で「ユーレイ植民地」とまで言われたとある。
 実弟の村山惟元さん(後の西部日伯アマゾン協会会長)が57年にマナウスへ移転して海協連職員をしていた関係で、20年後にタネさんらも移った。今から29年前に創立されたマナウス句会で作句をはじめ、星野瞳さんらに習って研鑚を続けてきた。2010年度NHK全国俳句大会でも特選・海外作品賞に輝いた実績を持つ。今回の大賞についてタネさんは「夢のようです。良い冥土の土産になります」と感謝を繰り返した。
 伊藤園俳句では01年に玉井邦子さんが文部科学大臣に選ばれたのを頂点に、過去当地から多く作品が入選したが大半は佳作だった。


 伊藤園=都道府県賞や佳作特別賞も=今年もブラジル勢が多数入選

 以下、入選句。【都道府県賞】▽いわし雲網打ち名人呼んで来い(藤井美智子)▽朧夜に君を信じて妻となる(林とみ)【佳作特別賞】▽秋晴や伊予の訛で城を賞め(井上人栄)▽火祭りや縄文人となり踊る(香山和栄)▽雑煮食ぶブラジル人になりきれず(二見智佐子)▽冬の朝とめるボタンのもどかしく(白石幸子)▽桜舞うふぶきが銀河に見えてくる(若松怜奈)
【佳作】▽千切り絵の如き小春の街並木(赤木まさ子)▽風薫る我が住む水の惑星に(荒木皐月)▽絵手紙は平安の春七文字(秋枝つね子)▽逢いたくて呼ぶ名君の名雲の峰(中川敬子)▽十字架立つ異国の丘に曼珠沙華(前田昌弘)▽呼び鈴に応う人なくカンナ燃ゆ(井上富美子)▽夕焼がチョコンと坐っている階段(浦畑艶子)▽書初めや年に一度の迷い筆(西田はるの)▽コロニヤの空気を吸って柿太る(佐藤けい子)▽無事終えし一と日に感謝籐寝椅子(山本紀未子)▽孫の来て遊ぶさ庭の葱ぼうず(中川春子)▽ふるさとの匂ひたちくる漬菜かな(神林義明)▽高々と泡沫の宴百日紅(浜田すみえ)▽秋晴や標高一千首都の街(富樫雄輔)▽ジャングルのゴム園の夢オペラ館(藤井紘輔)▽日本語に戻りて故郷へ初電話(長島裕子)▽マンゴー熟る水面に垂れて影揺れる(大楯エツヨ)