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ざっくばらんに行こう!=ニッケイ新聞合併15周年記念座談会=(2)=サ紙から紙借りて発行?

ニッケイ新聞 2013年8月30日

吉田尚則さん(ニッケイ新聞元編集長)

吉田尚則さん(ニッケイ新聞元編集長)

■吉田尚則(よしだ・なおのり)=1940年9月、秋田県生まれ。蛭田社長呼び寄せ移民の最後として1964年に渡伯。68年〜70年までウニベルツール、その後6年間、雑誌『セクロ』を刊行、1980年に園木社長によばれてパウリスタ編集部へ戻り、専務理事になり、日本の地方紙と提携を結び、90年頃、日本から研修記者を呼ぶ制度を始めた。日毎と合併した時に、パ紙を代表して交渉役に。ニッケイ新聞では初代編集長を務め、03年末に退社。


田村=でも実は園木(猛久社長)時代から、もうおかしくなっていた。浩九郎(こうくろう、水本光任サ紙創業社長の兄弟、専務)がパウリスタの編集部に「紙を返せ!」怒鳴りこんできたのは、74年頃だもんな。俺はそれを見て、「こりゃダメだ」って思った。それをキッカケにパウリスタを辞め、1976年に沖本(磯満代表)と組んで『週刊時報』(田村さんは編集長)を作ったんだ。
吉田=雑誌『セクロ』をやめて、私がパウリスタ新聞に戻ったのは1980年なんだよね。やがて、園木から小川パウロに社主が代替わりするのだけど、やはり随分金に苦労していてね。当時、サンパウロ新聞から紙を借りて印刷したことも多かったよね。
田中=サンパウロ新聞から随分ね、ボピン(新聞紙の巻紙)を持っていったんですよ。
吉田=浩九郎ちゃんが怒鳴り込んでくるなんてことは初めて聞いたけど、
一同=はっはっは(笑)
吉田=世話になっていたにも関わらずね、あの時星野豊作さんが『週刊時報』に寄稿して、サンパウロ新聞の円売り裁判の問題を投稿していた。それに関連してね、私もパウリスタに帰ったから、週刊時報対水本の裁判の判決をトップで書いたりしてね。水本さん(光任=サ紙創立社長)に大変な激昂を電話で受けた。「お前、何てことをしてくれたんだ!」と。
一同=わっはっは(笑)。
吉田=だから、遠慮してとかいう配慮はなく、世話になっていることと記事は全然関係ないっていう雰囲気だった。なんかもう底が抜けたような中で記事を書いていたから。もう、おかしいと思うことはバンバン書いちゃおうやと。
深沢=80年代のパウリスタ新聞は、かなり好きなこと書いている感じですよね。
田村=
でも雑誌『セクロ』をやった時は、水本社長に世話になったんだろ?
吉田=あれはね、世話になったというか…。
田村=金主(きんしゅ)だろ。
吉田=株主ではないよ。
田村=うん、株主ではないけど。
吉田=具体的に言うとね、しょっちゅう向こうから金借りるでしょ。その時に(水本社長が)裏書してくれたのは随分あったけどね。でもね、最後はね、これは裏話になるけれど、金借りて、最後はやっと返したよ。とにかく金には厳しい人でね。T氏なんか冷たく突き放されて「金返すまでワシの前に現れるな」と。たいした金じゃないのよ。それくらい冷たく突き放されていた。
深沢=あー、そうなんですか。
吉田=
だから、水本さんに公私ともにお世話になっておきながら、その裏で寝首かいたりしてと。そんなこともあったよね。
一同=はっはっはっは。
吉田=でもまあ随分、(水本社長には)世話になったよね。ただ高橋茂雄(筆名=高橋幸春)のあの連載小説(本紙6面掲載の『移り住みし者たち』)なんかを読んでいると、70年代初めから借りていたんだね。
田村=そんな感じだね。
吉田=知らんかったよ。我々80年代に入ってからね、いよいよという感じで、新聞紙借りたりしていたのかなと思っていたわけだけど。
深沢=でも園木時代には、もうかなり酷かったんでしょう。(つづき)