ニッケイ新聞 2013年9月4日
青柳の国士的熱誠によって進められ、期待を集めていたイグアッペ植民地事業だったが、実は肝心の入植希望者が集まらず、苦心していた。
神戸大学附属図書館サイトによれば、1912年8月21日付け東京朝日新聞の「ブラジル殖民計画」という記事には、イグアッペに関して《一月までには第一回の移民を為す可く目下関係者は奔走中なれば遠からず世上に発表せらるるに至る可し。而して移民の応募者の如何に就ては本年ブラジル珈琲栽培の移民二千四百人募集の成績極めて良好なりしに徴し(照らし合わせ)決して心配なかるべしと云う》などという募集に関する楽観的な観測が書かれている。
ところが実際に1916(大正5)年3月から40日間、移民3会社がいっせいに第1回募集として自作農300家族を呼びかけたが、わずか4家族が応募したにすぎず大失敗に終わった。この4家族が日本直来の初入植者で、移民船が中断されていた当時、英国経由で1917年1月に到着した。1914年にサンパウロ州政府が渡航費補助を中止し、第一次大戦でのコロノ枯渇を受けて1917年に復活するまでの試練の時期だった。
これを受けて伯剌西爾拓殖会社の重役会議において、結局は政府に泣きつくしかないという結論となり、酒井忠亮取締役会長(子爵)は1916年8月17日付けで石井菊次郎外務大臣に《何等かの方法に依り、本社経済上に御援助を与へられむ事切望の至りに堪えず》(『発展史』下、25頁)との請願状を出した。
実はこの事態、当初から予測されていたことであった。
1914(大正3)年にブラジルを実地調査して『ブラジル移植民の真相』を著した伊東仙三郎は、《ブラジルに日本植民地を作るは果たして利益なるや》との節に、真っ向から反対する説を唱えた。この著作は、笠戸丸から6年、始まったばかりのブラジル移植民事業を実見するために移民船に便乗し、6カ間にわたりイグアッペ地方を中心に踏査、その見聞に基づいて検証したものだ。
問題点の第一として、同拓殖会社が募集要項に、「移民一家族収支予算」を示し「千六百余円」の資金と、12歳の子供のある3人以上の労働者がいる家族である必要があるとした点を挙げた。
当時の《我国の農家の状態に考へても千六百円は愚の事、半額の八百円を貯蓄又は公債を以て所有する農家は実に中等以上である。斯かる農家が一家挙つて海外に出る筈がない。(中略)目下の日本水田の価格は一反歩二百乃至三百円であるから、少なくとも五反を所有する百姓でなければ千六百円の金は出来なぬ。此五反歩持ちの百姓は日本の中堅となるべき農家である。為政者は此頃中産農家が漸減して大農家と小作人の増加を歎じ、特に農家の保護法を発布せんとしつつある今日此頃、我国の中堅農家千二百家族を挙げてブラジルへ移住させようと考へる如きは、実に以ての他の僻事(間違い)ではあるまいか。此金高のみを数へても百九十二萬円である。況して此金に立派な人間迄附けてブラジルに進呈する様に考へるとは、是れだけの金は何年間に取返へせるであらうか、自己のみを思ひ日本國を思わぬ考へであると言える》(『真相』213頁)と厳しい分析を披露している。
しかし、政府筋の強い意向を受けて進めている計画である以上、少々の無理は押し通さざるをえない背景があった。
伯剌西爾拓殖会社は第1回の募集失敗にこりて、第2回には、現地側から絶対反対の意見があったにも関わらず、無理やり算段して植民者に移住資金を融資することにした。
そのような無理な対策を講じても第2回の1917年にはようやく99家族だった。1918年には150家族を送り出したが、目標とする「4年間で3千家族」には遠く及ばなかった。また《大正六(1917)年中に、移民会社の珈琲耕地行労働移民は、九百家族もブラジルに出ている所から見ると、伯剌西爾拓殖会社の殖民は相当不成績であったと評してよい》(『発展史』下、26頁)という状態だった。(つづく、深沢正雪記者)