ニッケイ新聞 2013年9月5日
1916年、伯剌西爾拓殖株式会社は第1回募集の失敗、植民地内の先住ブラジル人との土地問題解決、道路造成、資金欠乏などに苦しんでいた。さらに1917年の第2回募集も不振で、《拓殖事業の継続の為には、何等か採算的な有利事業を併営して、その利益に依る外なしとの案も出て(中略)遂に移植民会社合同統一の方向へ直進する事となった》(『発展史』下、26頁)。
植民地建設は水野龍が言うように〃国家百年の大計〃であり、「営利目的の投資」とは最初から肌合いの違うものだった。《此の植民地経営は会社組織に依るとは云へ、もともと青柳の国士的熱誠に動かされて生まれたものであり、従って株主なる者の大多数も所謂犠牲出資と心得て居たから、青柳としては働き甲斐もあり、又遣りよくもあったのである》(『流転』189頁)。
一方、日本政府は移民が安心して渡伯できる正式ルートを整備する必要に迫られていた。というのも移民会社が乱立し、中には悪徳商法的な業者までいたからだ。日本政府の指導により、1916年に3移民会社が合併して『伯剌西爾移民組合』が生まれ、さらに翌年12月に南米植民会社、日東殖民会社が一緒になって『海外興業株式会社』(『海興』)となった。『伯剌西爾拓殖株式会社』の資本金は百万円だったが、『海興』はその十倍の1千万円だった。当時のこの資本金は、現在の100億円以上に匹敵する巨額なものだ。
こうして〃百年の大計〃という理想だけでは立ち行かない現実に対し、政府が介入して、移民事業全体を再編する動きが本格化した。《寺内内閣の勝田(しょうだ)主計大蔵大臣は、大正六(1917)年八月七日大臣官邸に各移植民会社の代表を招集し、合同方を勧奨したので(省略)従来の移民会社が到底企画し得ざりし国策遂行の使命を担う海外興業株式会社が、大正六年十二月一日を以て創立された》『発展史』(上、174頁)。勝田は愛媛県松山市出身の大蔵官僚、政治家で、同郷の俳人・正岡子規や海軍軍人・秋山真之と親しかったという。
青柳の最大の後ろ盾であった桂太郎は1910年10月に病没し、その次の大浦兼武も「2個師団増設問題」が起こり、1915年7月に内相を辞任し、政治生命を絶たれていた。〃国家百年の大計〃という理想を支持する政治家はいなくなっていた。
青柳が理想とする植民地経営を実現するにはもっと資本が必要だったが、かといって営利主義的な海興に合併することには反対だった。だからこの合併劇は、青柳が在伯中の1919年4月に、「国策遂行」の旗印を掲げる海興側の政治家の主導で〃闇討ち〃同然に強行された。
《海外興業会社はブラジル拓殖会社と異なり営利会社で、本社の方針としては利益のある移民事業に力を注ぎ、利益の挙がらぬ植民事業には感心を持たず、レジストロ植民地は継子扱いされている観があった》(野村『思い出』54頁)。
さらに海興は1920年11月に森岡移民会社を買収して、移民事業と植民事業とが完全に統一された。《大正十(1921)年度より政府は相当の予算を計上し、内務省社会局をして移植民奨励に関する事務を掌らしむることとなり、同局は同年先づ海外興業会社に補助金を交付し、民間に於ける移植民宣伝施設を助成するの端緒を開き、是より所謂官民協力時代が現出した》『発展史』(上、176頁)
1921年からは〃官民協力〃というより、事実上の移殖民事業の「国策化」時代となった。(つづく、深沢正雪記者)