ニッケイ新聞 2013年9月13日
臣道連盟が指揮したのではないとしたら、7、8月の、事件の続発は、何故、起きたのだろうか? 襲撃は、6月のサンパウロの脇山事件の翌月から始まっている。「認識派の大物に天誅下る!」の報に、戦勝派の過激分子が刺激された点もあったであろう。彼らの間では「決行者」は英雄扱いされていた。
ただ、その標的が「大物をヤレなければ、代わりに小物でもよい」式に変わっている。しかも同時期、各地で一斉に決起している。何故だろうか? こうなったのには、幾つもの要因が重なっていたろう。その中で、筆者が思い当たることが、二つある。
一つは、この頃、四月一日事件以降、オールデン・ポリチカや地方警察に狩り込まれた人々の身に「何が起きているか」が、外部に知れ渡っていたことである。
なお、ここで念のため、もう一度説明しておくと、オールデン・ポリチカは政治社会保安警察で、サンパウロの市内にあり、地方組織は持っていなかった。 ために、他の警察……つまり警兵、民警の地方組織が協力していた。警兵は普通、州警兵と呼ばれていた。本稿では、これらを単に地方警察と表現している。 話を戻すと、留置された人々は、辱め、虐待、拷問そして理不尽な取調べを受けた。特にオールデン・ポリチカでは、一時は、天皇の写真や日章旗を、土足で踏むということまで強制された。 そのオールデン・ポリチカや地方警察には、認識派が出入りしていた。彼らは戦勝派を弾圧する画策をしている──と、被留置者たちは見て取った。
家畜扱いの虐待
サンパウロの文協の移民史料館に、一連盟員の遺した『拘留報告記』という数枚の手記が保存されていて、右の内情の一部に触れている。 執筆者は、四月一日事件の後、5日午後3時頃、知人の家を訪問中、警察に拘引され、夜零時半の汽車で、サンパウロに送られた。 到着後は、オールデン・ポリチカへ連れて行かれたが、何ら尋問を受けることなく、カーザ・デ・デテンソンに移された。(拘引数が多く、オールデン・ポリチカの留置場に収容し切れなかったため、カーザ・デ・デテンソンを使用)
執筆者が入れられた7号室は、7㍍に9㍍くらいの広さであった。が、そこに、多い時には90人、少ない時でも50人が押し込められた。すし詰め状態になった。夜は肩を竦め、足を曲げて寝た。寝返りをうつこともできなかった。
人いきれとコルションから出る塵埃は、部屋の空気を汚濁し、誰も彼も呼吸器を痛めた。
食事は9時にカフェーらしい臭いのする砂糖水と極く少量のフバパンだけが出た。アルモッソは11時半、遅い時には1時頃になった。毎日決った様にアロースとフェジョンで、肉もあったが、油ばかりの劣等肉で、悪臭が鼻をつき食べることはできなかった。ジャンタは4時半頃、同じ様なものが出た。日曜のアルモッソはマカロナーダだったが、味のない極めてまずいものであった。 食べ物の容器は、一度も洗ったことの無さそうな、見ただけで嘔吐を催す汚さであった。 野菜不足のため、誰も彼も便秘状態になった。 病気になっても、しばらくは放置された。
この後、オールデン・ポリチカへ戻されたが、その留置場は、広さ2㍍×2㍍半、高さ2㍍半、中央に大きな柱があった。そこに14、5人が押し込められた。座ることも出来なかった。夜は便所まで使って寝たが、身動きできなかった。 床はセメントで、冷えるため、下半身は凍え、両足が水ぶくれとなり青くはれ上がった。
天井が低いため、人いきれで汗ばみ、呼吸困難を感じ、交替で、僅かに開けられた差入れ口に顔をあて、空気を吸った。 食事時間は朝のカフェーが11時、アルモッソが2時、ジャンタが3時で、喉を通らなかった。匙が与えられないので、手づかみで食った。いつもアロース、フェジョン、カルネ・セッカで、カルネ・セッカは腐っており、食べると腹をこわした。
家畜扱いの虐待であった。(つづく)