ニッケイ新聞 2013年9月17日
セガールがブラジルからドイツに帰ってきた頃、戦争の足音がすぐそこまで聞こえてきていた。社会が不穏な空気に包まれる中、ドイツ帝国に占領されていた故郷リトアニアの惨事に胸を痛め、それを絵で表現しようとした。
1891年7月21日、セガールは当時ロシア帝国の占領下にあったリトアニアの首都近く、ヴィリニュスの小さなユダヤ人集団地で生を受けた。8人兄弟で、早くから芸術の才能を発揮していた。
ベルリンの美術学校で学んでいたセガールは、ベルリン分離派(19世紀末から20世紀始めにかけてドイツ語圏で起きた世紀末の芸術運動における芸術集団の一つ)を立ち上げたマックス・リーバーマン、ミュンヘン分離派のローヴィス・コリントなどの自由な画風に影響を受けた。
「そのとき、芸術の本質というものに気づいた。芸術家は、その時代の社会問題を理解することに力を注ぎ、それに適切な芸術の形式を与えなければならない。生きた芸術、すなわち我々が呼び慣れているところの近代芸術に参加すべきだ」という信念を秘めていたことを後に述懐している。
自由な作品の創作を追求したセガールは、19世紀後半にフランスで起こった印象派(Impressionismo)にも一時影響を受けたものの、その後は表現主義(Expressionismo)に傾倒した。旧東ドイツのドレスデンでは、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、ムンクなどに影響を受けた、最初の表現主義の先駆となったドイツの画家グループ「橋派」が、セガールを芸術家として成熟させることになる。
新たな画風を模索しようと他国へ旅をするが、その中の一つが、自身の人生を変えることになるブラジルだった。そこで見て感じた鮮烈な色と風景、多人種、人の温かさはヨーロッパにはないもので、当時の若いセガールの頭に焼き付いたのだった。「ブラジルで、光と色の奇跡を見た」。後に当時の印象をこう語っている。(つづく)