ニッケイ新聞 2013年9月17日
レイス法案に対して、親日派議員オリヴェイラ・ボテーリョはサンパウロ州の日本人集団地を巡回視察し、イグアッペにも足を伸ばし、数十頁にわたる報告意見書を作成して1925年7月8日に下院財政委員会で朗読し、《徹頭徹尾日本移民のために有利であり、レイス法案中の黄色人種移民制限条項は、これによって粉砕し盡くされた観があった》(『発展史』上、104頁)であった。
米国では1924年5月に排日移民法が成立されており、親米派からの策動も強かったが《結局、提案後足かけ五年を経て、上院へもとより下院の本会議への回付せられざるまま、財政委員会に於いて握りつぶされてしまった》(同107頁)
もしイグアッペが問題にされてレイス法案が可決されていたら——間違いなくアリアンサ、バストス、チエテ、アサイなどの1920年代に続々と作られた大移住地は実現されなかった。
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輪湖俊午郎が一時帰国した1918年8月はまさに、大蔵大臣勝田主計(しょうだ・かずえ)の肝いりで、イグアッペ植民地を経営していた伯剌西爾拓殖株式会社を『海興』に合併する発表後の波乱の時期だった。
輪湖は帰国後、すぐに帝都に向かった。当時の海興本部の様子を描写した珍しい文章がある。《その頃海興は宗十郎町にあつた。二階作りの立派な建物で、階下には会計ら二課が頑張り、凡そ四五十名の会社員が金網の中に蠢いていた。人事関係を見るに、勝田大蔵が作った会社だけに当然社長には其乾分(こぶん=子分)であった旧知事を持って来た。すると知事は複昔の眷族(げんぞく、身内)を連れ込む。東拓、両船会社も夫れぞれ代表の意味で重役を送り、旧移民会社関係の人をも皆連子をしてくると云う具合で、相当心理的には不統制混雑の大所帯であった。専務が五人も居り、筆頭神谷、次に水野、信夫、龍江、青柳と云う順序であった》
合併反対派の青柳はその状況の中、じっと耐え偲んでいた時期だった。《重役室の一隅を衝立で仕切り、其處に老眼鏡をかけた羽織袴の重役が一人居ゐた。終日黙して何か読んでゐた。これが青柳でイグアペが可愛いばかりに、斯うして忍従生活を続けてゐたのである》(『流転』191頁)。
論文「誰が移民を送り出したのか」(坂口満宏、立命館言語文化研究21巻4号、55〜56頁)によれば、《1917年12月、大蔵省や外務省の後押しを受けて東洋移民、南米殖民、日本殖民、日東殖民の4社が合併し、海外興業株式会社が生まれた。初代社長には内務官僚出身の神山閏次(じゅんじ)が就き、専務取締役には神谷忠雄(伯剌西爾拓殖会社出身)、水野龍(南米殖民株式会社)らがいた。発足当初の資本金は18万株の900万円だったが、その7割余りを日本郵船・大阪商船・東洋拓殖の3社が支えていた》という。
1919年には実際に伯剌西爾拓殖会社を67万円で買収し、1920年に盛岡移民会社を吸収し、海興が日本における唯一の移民会社になった。この海興が送り出したブラジル移民は15万人を越えた。レジストロ地方と関係なく、1920年以降に渡伯した大半が海興扱いだった。
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輪湖は帝都の海興本部で、青柳の国士的熱誠と事業に胸を打たれて北米を捨てて渡伯したとの経歴を説明すると、青柳はただ默して聞いていたという。合併を目前とした情けない情勢において、忸怩たる想いが強く、何も言えなかったようだ。
それ対して水野は、移民募集の手伝いに馳せ参じたという輪湖の趣旨に大いに喜び、《旅費のない者には、必要なだけ貸せてやる方針だから、しっかり宣伝をして貰いたい。あなたの縣には、中村國穂と云う立派な人間が代理人をしている。どうか十分相談して努力して頂きたい》と伝えた。
輪湖は《耕地移民とイグアペ植民とどちらを主とするのですか》と問うと、水野は《さよう、信州の人間は進んでいるから、植民を主にするがよかろう》と答えたという。
この水野の一言から、長野県人がレジストロ地方に集中する発端が開かれた。(つづく、深沢正雪記者)