ニッケイ新聞 2013年9月18日
古木雄治さんの両親は子供の頃ボリビアのサンフアンに移民として渡ったが、後にエクアドルに再移住しており、南米生活は長い。でも家庭内は日本語で、古木さんも日本の大学へ留学経験があり、丁寧語も使いこなせる。
現地人とも日本人とも交渉が重要な役に適していたが、それまではフリーランスで通訳や映像の仕事をしており、アバカに関しては全くの素人だった。
「サントドミンゴに来たのも初めてで、何もわかりませんでした。1カ月は従業員の皆さんと一緒に働いていろいろ教えてもらいました」。ニコニコと話す古木さんは、不思議と苦労を感じさせない。
エクアドルでも特に活気のあるグアヤキルから突然、鳥の鳴き声しか聞こえないプランテーションのど真ん中に転住した。でも、「車がなくて渋滞もないし、静かで落ち着きます」と微笑んでいる。
新米の若社長ではあるが、彼が来てから業務の改善が進んだ。パックにするときに結ぶ紐をアバカのロープに変えたり、苦情に対応できるよう日付などの情報を記入したタグをパックに付けることを始めた。
仕事の後は、ほぼ毎日従業員とサッカーで汗を流し、いつの間にか団結が芽生えた。
アバカの繊維はその強さゆえに昔はロープに使われていたが、徐々に石油製品に圧され、現在は主に特殊な紙の原料になっている。紙幣やティーパック、たばこのフィルターなどだ。天然素材ということを生かし、従来ビニールが使われていたソーセージのフィルムにも加工されているという。
「これからは、もっとアバカの使い道を広げたいですね」。穏やかに話しながらも、ときおり意気込む若社長の様子はどこか頼もしい。
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現在日本でよく知られるようになった自然循環栽培バナナの田辺農園(TECNOBAN)も、もとは古川拓殖のアバカ農家であった。
現在エクアドル在住日本人最高齢の田邊正明さん(95)は、ダバオ時代に農業技術者をしていた。戦後、日本郵便に勤めていたが海外移住の夢を諦められず、45歳で妻と二人の子を残し、単身エクアドルへ。
67年に家族を連れてきた。16歳だった長男の正裕さんは当時を語る。「自分も外に出たいと思っていたから、父がエクアドルに行きたいと言ったときはいいね!と思った」。
到着して2週間後、正裕さんはひとり家族から離れ、他の古川拓殖社員の家に住み、キトで高校に通った。「父は2年後に独立したけど、自分は大学で獣医学を勉強していたから、農園のことはわからなかった」。
大使館や日系商社の現地採用を経て、88年に跡を継ぐため初めて農園に戻った。
正裕さんは「親がやっていることをそのままやるのは面白くないから、ブームだったバナナをやろう」と91年、キトで貿易代理店を営む内田渥さんの出資をえて、150ヘクタールにバナナを植えた。(つづく、秋山郁美エクアドル通信員)