ニッケイ新聞 2013年9月19日
初めてブラジルを訪れてから10年後、戦後のヨーロッパの不況から再びブラジルへと目を向けたセガールは、1923年、妻と共に、ドイツで描きためた作品を荷物に入れ、永住を決めて旅立った。
最初の2カ月は、兄弟が住んでいたサンパウロ市パライーゾ区の家に居候した夫妻。新生活への適応には時間がかかり、資金不足などで最初の滑り出しは順調ではなかった。
その後は、初めてのブラジル滞在時にセガールの才能を見出してくれたフレイタス・ヴァーレが若手芸術家を集めていたヴィラ・キリアル(Vila Kyrial)へと足を向けた。以後、セガールの存在は当時の芸術シーンに深い影響を与えるようになる。
1932〜35年は、近代主義芸術に賛同する芸術家団体(SPAM)の立ち上げメンバーの一人として活発に活動し、ブラジルの美術史に残る画期的な取り組みをした。
カーニバル後のダンスパーティーを企画するなどして国内外の芸術家の展覧会を開くための資金集めを行い、その展覧会を通して芸術家や芸術愛好家の交流が生まれることにもなった。
生涯を通じて様々な場所に住んだセガールだが、騒々しい場所よりも自身のアトリエにこもって作品を描くのを何よりも好み、夜になるとひとりで近所を散歩する習慣があった。
絵に限らず彫刻にも積極的に取り組み、暴力や貧困、社会的不公正などの問題に目を向けそれを世界の普遍的テーマとして描き出そうとした。(つづく)