ニッケイ新聞 2013年9月19日
輪湖俊午郎は1918年、13年ぶりに一時帰国したにも関わらず、信州松本市に手土産一つ持たず、こうもり傘一本で帰省した。そして、ふる里に失望した——。
8月17日には近隣の信州長野市にも米騒動が起きていた。輪湖は《村人の心さへ荒れすさび、嘗て想像でも許されなんだ不愉快また薄情な空気が、ここにもかしこにも漂ふてゐるのを見た時、これが彼(=輪湖)が生ひ育った故郷であり得るかとさえ感傷的になつてきた。外国にあつて常に考へて居た我郷土は、もつと平和な更に温情の横溢し所であり》と嘆き悲しんだ。
そして故郷に失望した挙句に、ブラジルにあるべき故郷たる〃日本村〃を再建するのだという熱い想いが込み上げる。《『汝に故里なし、郷土に帰って而も故郷を失う。さはれ汝は其の子孫の為に再建すべき故郷に生きん』とは彼(=輪湖)の感傷の中に、武者ぶるいするのであつた》(『流転』201頁)
紅葉が信州を彩り、郷愁を癒して一段落した10月、輪湖は〃日本村〃のために活動を開始した。《いよいよ村を出て帰国の目的たるブラジル宣伝に乗り出した。当時は欧州戦乱の終焉直後であり、財界の変動未だ来らず尚戦時成金の天下に属していた。ある船成金が其の豪勢を張る趣向として、宴会の膳部に添えた吸物椀に、金貨を洗めて客を驚かしたと云う莫迦げた話などさへ賑わっていた》(『流転』223頁)。そんな中での、餓えた庶民による米騒動だけに、その格差社会の広がり、人心の荒れ具合は、輪湖の心象に深く響いたに違いない。
《人心混沌としてその帰趨を知らず。日本の真の姿は此の騒動の底に逸し去られたかに見えた》(『流転』223頁)。
信じるところの移住とは《国土の開発と云ふことは、自然を破壊することであってはならない。自然の荒廃と共に、人心の荒れすさぶを彼(=輪湖)は恐れた。日本と云う国土は限られてゐても、日本民族の領域は八紘を宇となすこと、建国の昔より定まってゐると信ずる彼であった》(『流転』223頁)
そして《少なくとも日本民族の理想は、消極的には社会人類の浄化であり、積極的には天地創造の世界にある。切磋琢磨の二千六百年、此の光輝ある日本歴史は、日本民族の為のみであってはならない。曾(かつ)て侵さるる事なく完きを得る此の貴き蓄積は、総て他民族にも分たんが為に許された遺産である。日本民族の海外発展は、與ふるにありて奪ふ為ではない。與ふる者に曾て敵あるなし》(『流転』225頁)との想いを固める。
輪湖は翌1919年3月に讃岐丸の移民監督として渡航し、イグアッペ植民地に入った。同航者780人のうち、長野県人だけで40家族も乗っていた。その中には輪湖が日本滞在中に結婚した婚家先の浅野家、自分の親戚、実兄家族らも含まれていた(『日々』159頁)。
《レジストロでも、一九一八、九年にかけて入植した植民者には長野県人が多く、(中略)一三〇家族が入植し、県別入植者数で長野県が第一位を占めている》(『信州』74頁)とある。その多くは輪湖の呼びかけに応じたものだろう。
1919年4月4日、予想通り、イグアッペ植民地を経営する伯剌西爾拓殖会社は海外興業に合併された。1920年3月にセッチ・バーラス植民地が開設され、その7月に輪湖は伯剌西爾時報を正式に辞任した。「辞任した」とはいっても、サンパウロ市に家を残してはいるが、事実上すでにイグアッペ植民地にいるような状態だったようだ。(つづく、深沢正雪記者)