ニッケイ新聞 2013年9月20日
1932年、サンパウロで近代主義芸術に賛同する芸術家団体(SPAM)の立ち上げメンバーとなったセガールだが、その前の1928〜32年は一時的にパリに住み、ブラジルをモチーフにした作品や、移住をテーマにしたものを描いた。その頃の躍動感あふれる色彩を施した作品は、薄弱で優しい光の効果を作り出している。
また、この頃から彫刻作品にも意欲的に取り組むようになったことで、絵画作品で描く人物にも立体感や迫力が生まれ、色も、土色、灰色、オークルなどを多用するようになった。『黒人の母(Mae Negra、1930年)』、『原生林にある家(Casa na Floresta、1931年)』などにその傾向がみられる。
ブラジルに戻ってからは1935年以降、避暑地として知られ、ドイツ風の屋敷が美しいサンパウロ州カンポス・ド・ジョルドン市の風景画を描き、38年にサンパウロ市立劇場で上演されたバレエ「真夏の夜の夢」の舞台衣装も手がけるなど、芸術家としての活動の幅を広げた。また、当地の近代芸術のアーティストと広く交流を持ち、作家や詩人とも共同で作品を発表した。
その後も『移民船(Navio de Emigrantes、1939/40)』、『戦争(Guerra、1942)』など、人間のドラマを切り取ったような作品を発表、43年はリオの国立美術館でそれまでの作品を振り返る展覧会が開かれた。
50年代に入ってからは抽象画に近い作品も発表するようになった。アースカラーの直線が印象的な「黄昏の原生林」(Floresta Crepuscular、1956年)は、自然から新たにインスピレーションを受けて生まれた作品だ。
51年に開かれた、第一回目となる現代美術の大規模国際展覧会「サンパウロ・ビエンナーレ」では、セガールの作品の特別展示室が設けられた。このイベントは2年に1度、世界中から招待された美術家らがサンパウロ市内の会場で作品を展示するもので、イタリアのベネチア・ビエンナーレ、ドイツのドクメンタと並ぶ世界の重要な国際美術展の一つだ。
57年にはパリで大規模な個展が企画されていたが、心臓疾患で倒れ、同年、サンパウロの自宅で66歳で亡くなった。(終わり)