ニッケイ新聞 2013年9月25日
南洋の島の架空の土地の分譲は、既述の臣道連盟の再移住の話が広まる中で始まった。
詐欺師たちは、日本軍が占領した島に造成中の植民地だと言って、いかにも、それらしくロッテアメント(区画化)した図面を見せながら、ロッテ(区画)を売って歩いた。
これも、売った側の正体も被害の状況も、伝わってはいない。
ただ、戦時中に類似のことがあって、前出のマリリアの西川武夫の手記の中に、その話が出てくる。
1942年3月、同地の大同植民地で、日下部某ほか数名が、翼賛会ブラジル同志会なる団体をつくり「国策に副って、この地より南洋へ一万家族を送る」と会員を募集、会費を徴収した。
これは詐欺であると訴える者があって、警察が動いたという。
が、最終的にどうなったか……については、手記は触れていない。
円売り
時局便乗詐欺の中で、今なお多くの人に記憶されているのが、いわゆる円売りである。
日本の敗戦や新円切り替えで、紙切れ同然になった旧円が「大量にサンパウロに存在、法外な値段で売られた。日本の戦勝を信じ帰国を予定している人々に売りつけられた」という。
これが、表面化したのは、終戦の翌々年の1947年である。
以後、邦人社会=コロニア=は勿論、日本でも繰り返し雑誌や新聞の記事になった。1回だけだが、映画にもなった。
(「邦人社会」という呼称は、戦中・戦後、徐々に「コロニア」に変りつつあった)
記事の内、最も社会的に影響したのは──1954(昭29)年に日本から来た──評論家大宅壮一が、帰国後発表した『世界の裏街道を行く』という作品の中で紹介した説である。その趣旨は、
「戦争末期、上海や香港で日本の円が大暴落した。ためにユダヤ商人がブラジルに持ち込み、祖国の絶対不敗を信じる日本移民に売り始めた。
が、終戦で、大量の円が売れ残り、紙屑同然となった。
その円を、邦人社会のボスが買って、日本の戦勝説を流しながら売り続けた。同時に、日本が負けたと言いふらす者は国賊であり、天誅を加えるべきである、と青年たちを扇動、襲撃させた。
そのために組織したのが臣道連盟である。彼らは20人ばかり殺した。その結果、負け組は沈黙、円は高騰した」
というもので、連続襲撃事件や臣道連盟を絡めている。
しかし、これは、その原文を読めば判るが、大宅がサンパウロ滞在中、人から聴いた噂話を文字にしただけで、裏付けも何もとっていない。
ところが、日本の有名な評論家が取り上げたというので、コロニアに信じられ、根付いてしまった。同時に「連続襲撃事件は臣道連盟がやった」という通説の信憑性も高めてしまった。
やはり1954〜5年、円売り問題がサンパウロで映画化された。『南米の曠野に叫ぶ』という作品である。
戦勝派が醵金し制作したもので、円売りを、ナンと「認識派の大物がやった陰謀」として描いていた。認識運動の中心に居った人々が、裏で戦勝報を流し、円を売っていた、というのだ。
この映画、終戦直後を舞台とし、登場人物の内、何人かは、実在の人物をモデルにしていた。 認識運動の代表者格であった宮腰千葉太は一味の首謀者、仕掛け人だった藤平正義は幹部、そして南銀総支配人の武田俊男やサンパウロ新聞の社長水本光任が仲間という具合だった。
ただ、この映画、殆ど上映されなかった。モデルにされた側が激怒、手を打ったのであろう。
話は変るが、資料類によると、1960年代、日本で流行作家の梶山秀之が『週刊文春』に「ブラジル“勝ち組”を操った黒い魔手」という記事を書いた。
これは、やはり円売りをテーマにしており、その円が上海・香港から、ユダヤ人によって持ち込まれた──という筋書きであった。
記事は、その円を持ち込んだのはヤコブ・E・ヤスーン、通称〃上海ヤスーン〃というユダヤ人であるとしている。(つづく)