ニッケイ新聞 2013年9月28日
日本人向け緑茶のみでは市場が小さすぎ、かといってブラジル人向けなら紅茶を製造しなければ、そのためには機械化が必要という段階になっていた。
《一九三二年の革命が勃発して革命軍の勝利となり、革命軍はミナス州境を越えてレジストロの市街地に駐屯することになった。カフェ地帯で無い哀しさにカフェの品切れとなり困っていると聞いた夫は、直ちに未完成の紅茶なれど軍に寄贈することにした。軍人の中にドイツ系の軍人が沢山居て紅茶を好み大変喜ばれて、三百人に余る軍人が広場に整列して最敬礼をされ、隊長は己がかむる鉄かぶとをぬいで名を記し、今日の記念にと差し出された。その時の光景を今尚思い出の一つと語り草にしている》(『茶の花』193頁)
ただし、《革命軍の勝利》となったのは1930年のヴァルガス革命で、1932年の護憲革命ではサンパウロ州の革命軍は敗北したので、岡本久江の記憶違いだ。であれば革命軍が越えて来たのは《ミナス州境》ではなく、南大河州から北上してきたのだろう。ヴァルガスを支持する南大河州軍だから、ドイツ系軍人がたくさんいた可能性が高い。
イグアッペ市立博物館の解説委員ニッセ・エレーナ・オリベイラにも尋ねたが、やはり「1930年にも、1932年にも南大河州の軍隊がここを通っている」という。
また32年同地生れたの吉岡初子さん(81、二世)によれば、やはり「1932年にヴァルガス大統領を支援するために南大河州から北上して来た軍隊が通過した」と所蔵写真を見せた。「馬を徴発したり、食糧を出させられたりして損害はあったけど入植者を痛めつけたりという危害はなかった」と聞いているという。
ブラジル側官憲初のレジストロ訪問者はワシントン・ルイスで、1921年当時にサンパウロ州統領としてイグアッペ郡を訪問した。その後、大統領(1926—1930年)に就任した。《邦人には一番親しみのある大統領で、州統領時代には悪々辺鄙なレジストロ植民地に歩を進められた程で、日本人に厚意を持った人であった(中略)道路その他交通設備に多大の関心をもたれた州頭領で、植民地の完備した道路を激賞されたのは単なる外交辞令だけではなく青柳氏も大変恐悦の様子であった》(野村『思い出』55頁)
しかし、彼はミナス州とサンパウロ州で大統領職をもち回る「カフェ・コン・レイチ」の伝統を無視し、次期大統領候補にジュリオ・プレスチス(サンパウロ州)を指名した。そのためミナス州が裏工作をして「自由同盟」を立ち上げ、南大河州のヴァルガス候補を擁立した。それが1930年3月の投票で大差の敗北を喫したことから、サンパウロ州の珈琲貴族の政治支配に対する不満や反抗が高まり革命となった。
ヴァルガスは共和国臨時政府の大統領となって憲法を停止し、国産品の発展を図るために輸入品の制限令を出した。《その中にリプトン紅茶も混じっていた。その為に私たちの小さいこの事業も光明を得て少しずつ売れ行きの上がるのを見ることが出来た。それに力を得て機械も購入でき、工場も完成することができた》(『茶の花』193頁)という思わぬ〃革命の副産物〃に助けられた。
ヴァルガス支持の若手将校らは「国家の体質改善」を目指していたので憲法を停止して「ブラジル精神高揚」を図り、ナショナリズムを強化した。岡本が目指した紅茶は、その中に入っていた。
その憲法停止に対し、立憲政治を護持する立場からサンパウロ州民が1932年に起こしたのが「護憲革命」だ。パラナ州境のイタラレー付近に集結していたサンパウロ州主力軍を避けて、海岸沿いにレジストロを通ってサントス、リオへ向かった途上だったようだ。(つづく、深沢正雪記者)