ニッケイ新聞 2013年9月28日
前衛隊
終戦から5年後の1950年11月。マリリアで、いわゆる前衛隊事件が起きた。
そういう隊名の戦勝派50余人が、警察に逮捕されたのである。
ポルトガル語の新聞の中には「臣道連盟の復活」という見出しを掲げたところもあり「またか!」と読者を驚かせた。(前衛隊=正確には「大日本国民前衛隊」と名乗っていた)
以下、そのポ語新聞の記事の翻訳資料によるが。──
隊の首魁は、山岸宏伯という男だった。
戦勝論を唱え、各種の武器、弾薬を貯蔵、敗戦論者の暗殺リスト(80余人の認識派知名人の名前を記載)、檄文を用意していた。
その檄文には「敗戦論者を抹殺せよ」「売国奴を倒せ」などの字句が並び、末尾には「陸軍情報部 日本陸軍憲兵 山岸中尉」とあった。
山岸たちは、これを小道具に、戦勝派の人々を対象に、募金をしていたという。
マリリアに続いて、バウルーやサン・カエターノ・ド・スールでも隊員が数名、逮捕された。
ただし事実が、この通りであったかどうかは疑問である。(ポ語新聞が、戦時中から〃作文〃や間違いを繰り返していたことは既述した)
警察の取調べは「前衛隊の目的は、日本の戦勝を信じている同胞を騙して、金銭を巻き上げることにある」という結論に落ち着いた。
前衛隊員は、拘置所代わりに使用された刑務所に送られた。
以後に関しては、適格な資料を欠く。
マリリアの裁判所が、2、3年後、彼らの釈放を許可してしまった、という説もある。
隊員の中に、多田幸一という人がおり、その遺族によると。──
多田が逮捕された後、警察署長から「日本が戦争に負けたことを認める、という書類に署名をすれば、釈放される」と教えられた。
幸一が拘置されている間、その妻は何度も面会に行き「子供たちも学校へ行く年頃で、困っているから、署名して下さい」と懇願し続けた。
結局、幸一は署名をして出所した。1952、3年頃のことである。
拘置されていた他の隊員も同じであったという。
要するに起訴はされなかったことになる。なんとも、わけの判らない結末である。
桜組挺身隊
1953年、桜組挺身隊という団体が現れ、精神分裂症気味の言動を繰り返した。
それを始めたのは、朝鮮戦争が終る少し前である。当時、米国は国連加盟国に、朝鮮への義勇軍派遣を要請していた。ブラジルでは、反対の世論が強かった。
が、そこに、この桜組挺身隊が、朝鮮行きを志願して出たのである。ロンドリーナで隊をつくり、市長、リオの陸軍大臣宛に、自分達を朝鮮へ派遣するよう請願する書類を送った。さらに幹部がリオに行き、陸軍大臣に面会を求め、門前払いをくわされた。
朝鮮戦争が終わると、今度は、在朝鮮の国連軍に協力すると称して、隊員の募集を続け、入隊費(200クルゼイロス)を徴収した。募集係は「派遣されれば、無料で日本へ帰れる」と説明していた。
しかし、一向に、その帰国が実現しないのに不審を抱いた入隊者が、サンパウロ日本総領事館に訴え出た。館は、帰国詐欺の疑いを抱き、邦字紙を通じ警告を発した。
これが同年9月であるが、その前後、桜組の幹部と隊員が、サント・アンドレに移動した。ビラ・ウマイタという所の石井という養鶏場の鶏舎三棟を借りて、共同生活を始めた。女、子供も一緒で、総勢は100〜200人であった。
桜組の中心人物は吉谷光夫という男であった。一見50歳前後、色浅黒く、精悍な顔つきだった。戦前、日本語の教師をしていたというが、非常な雄弁家であった。
隊の実務は天野恒雄、林田治人などという幹部がとっていた。一般の隊員は、無料帰国を盲信して、ついてきているだけであった。
吉谷は、内部ではカリスマ性があった。が、外部からみれば、逆であった。「吉谷」はヨシガイと読むが、ある邦字雑誌は「ヨシガイではなくキチガイではないか」と書いた。 (つづく)