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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(89)

ニッケイ新聞 2013年10月1日

 その後も、桜組挺身隊は、奇矯な言動を続けた。
 サンパウロの中心街に、白襷に白鉢巻姿で現れ、意味不明の日本語のパンフレットを配ったり、サント・アンドレでデモをしたりした。
 デモをしたときは、地元警察によって、幹部10人がオールデン・ポリチカへ送られた。
 吉谷は留置場で、邦字紙記者の取材を受け「デモの目的は、無論、日本に帰りたいからだ」と、正直に喋った。
 彼らは、間もなく、釈放された。
 それに前後して、ビラ・ウマイタの鶏舎には、バストス方面から、隊員多数が家族連れで来て、合流した。総勢は200人以上に膨れ上がった。
 こうなると、食費だけでもバカにならない。焦ったのであろう、今度は共産義勇軍として台湾を解放する、と言い出した。共産主義者として日本へ追放されることを狙ったのである。
 日本総領事館は、館員を派遣したり総領事自身が出かけたりして、隊を解散するよう説得した。が、効果はなかった。
 ちなみに、同時期、パウリスタ新聞に、元隊員の次の様な談話が載っている。
 「挺身隊に加盟すれば、無料帰国が出来ると勧誘を受けたので入った。(幹部の)林田からも絶対間違いないとの確言を受けた。しかし、いつになっても実現しないので、脱退した」
 1955年2月、総勢100人以上の隊員が、サンパウロの中心街で、のぼりを押したて、軍歌の替え歌を合唱しながら行進した。男たちは戦闘帽に襷がけであった。総領事館へ押しかけ、総引揚げ嘆願書を提出した。 数日後、再び押しかけ、回答を求めて座り込んだ。館側は警察に排除を依頼、駆けつけた警官と隊員が乱闘になった。叫び声があがり、負傷者が数人でた。
 この後、サント・アンドレの警察が、桜組に解散を命令した。すると、隊員数人が総領事館へ乗り込み、解散費用を要求、館員に暴行、椅子や机を投げ飛ばした。
 4月、州政府の法務局と保安局が、強制解散命令を出した。州警兵が出動、全員をサンパウロの移民収容所へ移した。
 その後、一般隊員は釈放されたが、幹部たちは起訴され、禁固9カ月の判決を受けた。
 彼らに、鶏舎を提供した養鶏場の主は、隊に大金も寄付しており、激昂した家族によって、家から追い出されたという。

 偽宮事件

 1954年1月、もう一つ、奇ッ怪至極な異常事が表面化した。「天皇の特使朝香宮」を騙る男が現れ、各地の戦勝派から、金銭や財産、娘まで献上させている──というのである。
 男は、サンパウロ市内の邸宅に住み、別宅も構えていた。幾つかの事業を企てる一方、海岸山脈沿いのエンブ・グァスー郡シッポーという所に農場を所有していた。
 幾つかの事業とは、貿易、製紙、新聞である。 が、貿易は、知人から運転資金として大金を預かったものの、仕事はほったらかしだった。
 製紙は、日本名を青木伊三郎という韓国人キム・スー・ジョと組んで「日韓伯共同事業!」と大きく宣伝して始めた。 彼を宮様と信じる人々から、出資金代わりに不動産の白紙委任状を取り、会社の設立総会まで開いた。が、以後は、何もしなかった。
 新聞は、購読料や広告費を集めたが、これも、それまでだった。
 シッポーの農場だけが動き出した。ここでは(その男を朝香宮と信じて)入った200人に、野菜を栽培させていた。が、無報酬で、粗末な食糧と生活用品を、途切れがちに支給するだけであった。
 一方、男は運転手つきのキャデラックで、しばしば「民情視察に、本宅から、中心街へお出まし」になった。農場にも、顔を出しては素人臭い指示を出し、作業を混乱させた。
 無論「天皇の特使、朝香宮」は偽称で、本名は加藤拓治、本稿では円売りの記事の中で、チラリと名前の出た男である。 邦人社会では、以前から、怪しい人物として、消息通には警戒されていた。
 それと、この加藤を宮様に仕立て上げた策士がいた。川崎三造である。この名も先に登場した。(つづく)