ニッケイ新聞 2013年10月2日
加藤拓治と川崎三造は、数年前にツルんで動き始めていた。
川崎が、各地の戦勝派の前に姿を現し、自身を「日本の特務機関員」と称し、
「近く日本軍が、移民を迎えに来る。それに先立ち、天皇の特使として、密かに、高貴な方がブラジルに来ておられる。朝香宮らしい」
と、秘密めかした話法で、人を惹き付け、
「我々が、そのお世話をしようではないか」
と持ちかけ、同志を募っていた。
話に乗ってくる者があると、その地域の支部長や役員に任命、さらに同志を募集させた。
人数が増えると「宮様の生活費、我々の帰国のための工作費」といった名目で、金銭を献上するよう、皆に勧めた。
サンパウロの市内には宮様に謁見できる仮御所もあった。そこには、御簾のつもりらしい竹のすだれが垂らしてあった。 謁見となると、すだれの内側に加藤が腰掛け、外側に拝謁者が進み出、傍に侍従役らしい男が立った。侍従役が拝謁者を紹介すると、すだれの内側で、加藤が短く厳かに、ひとこと、ふたこと何か言う。拝謁者が献上金を差し出すと、侍従役が受取る──。それで終わりであった。
加藤には、キヨという妻がいた。ただの女であったが、これも妃殿下らしく振舞っていた。
川崎の名は、すでに邦字新聞で取り上げられたことがあり、詐欺師としては有名であった。しかるに、こういうことが出来たのは、後世の我々から見ると、理解できぬ話である。が、川崎は弁舌巧みで、詐欺師としては天才的なところがあった、という。
それと、献上者に対しては、日本への優先帰国のほか、好餌を用意していた。例えば、献上金は日本へ帰ったら三倍にして返すとか……。ある大口献上者には、陸軍中将の地位を与える、と約束していた。
シッポーの農場に200人が入ったのは、1952年末から翌年にかけてことで、バストス、モジ、アルバレス・マッシャードなどから、やってきた。日本に帰るまで、ここで修養をする……という名分が用意されていた。
この農場で、1953年の8月、一部幹部による暴力事件が起こった。被害者は、加藤を宮様と信じて、ここに入った人々であった。
その被害者3人は農場を逃げ出した。彼らは、この段階では、加藤を怪しいと気づいていた。そこでコロニアの、しかるべき筋に、農場内の異様な実情を訴えた。訴えられた側は、警察に解決を依頼した。
その結果、1954年1月4日、オールデン・ポリチカの刑事10余名が、3台の自動車に分乗、農場を急襲した。内部を捜索、主だった7人を連れ帰り、事情を聴取した。その結果、農場に居る者は、自分たちの動産や不動産を加藤……彼らから見れば宮様に、献上して、日本へ帰る日を待っていることが判った。
この時の邦字紙記事によれば、農場に居る人々は、酷い窮乏生活をしていた。しかも外出は許されず、新聞も取らず、近くの邦人との接触もなかった。
刑事たちは加藤の本宅も捜索した。が、加藤は姿を晦まし、9日になって、オールデン・ポリチカに出頭した。
17日、川崎三造も、愛人の説得で出頭した。 この川崎、留置場で自殺を図ったり、それを中止したりして、ケロリとしていた。
尋問には、加藤も川崎も、ヌラリクラリと言い逃れ、刑事や取材記者を苛立たせた。
この間、ポ語新聞も邦字紙も大変な興奮ぶりで、関連記事を毎日、報道し続けた。
そのコピーが、サンパウロの文協の移民史料館に、数十枚保存されている。それによると、加藤、川崎らによる詐欺額は数万コントス……と見做す説もあった。月10コントスあれば、女中や運転手を雇って、悠々と生活出来た時代のことである。(「コント」は、前通貨時代の呼称であったが、習慣として使用され続けていた)
被害者は、朝香宮を実物だと思い込んでいた人々で、邦字紙は数百人と推定していた。(つづく)