ニッケイ新聞 2013年10月3日
沼田小一郎(信一の父)は北パラナ視察の帰りに、道端でスイカを売っているのを見て「家族に食べさせたい」との一念から買い、それを担いで海岸山脈を越えて割らずに届けた。この父親の実行力、英断が家族を救った。そして同地から続々とパラナ州に向かう流れの端緒となった。
3家族が引越しのためにセッチ・バーラスの船着場に到着すると、海興に就職したばかりで、植民係として見張り番をしていた、まだ30歳前後の山本勝造に呼び止められた。会社側の言い分として「一年収穫したのだから、次年度の年賦と1年分の利息を払ってくれ。でないと引越しはさせない」とねばった。
延々数時間も交渉したが山本勝造の粘り腰に敗北し、なけなしの金を取られ、ようやく深夜1時にカノアに乗り込んだという。《無慈悲な此の係員にロンドリーナヘ来てからの開拓資金をもぎ取られた〜》(『昔話』第7巻47頁』)。
1934年の5月にロンドリーナに移転した。《パラナ州のロンドリーナに移る事に決ると、同船者の七家族は時を同じくして全部移る事になり、その他の人々も、忽ちの内に移動することとなって、数百家族の入植者が居た筈のセッチ・バーラス植民地はたちまちに崩壊して行くのであった》(『昔話』第10巻59頁)
正式に引越しするには、荷物を持ってセッチ・バーラスまで出て、そこで丸太船に乗って蒸気船の船着場まで出て、蒸気船でジュキアまで行き、ジュキア線の鉄道に乗ってサントスまで出て、そこからサンパウロ市を回って、ソロカバナ線に乗ってパラナに行く。大変な道のりで、交通費もかかる。
セッチ・バーラスの船着場には海興の見張り番がいるから、土地を買った残金などで話がつかないと、そっちのルートを使えない。海興としても借財を残して出て行かれたら困るから必死だ。
その結果、歩いて山越で引っ越しする家族までいた。《此のけわしい山脈を六十才を過ぎた老人夫婦に子供孫と十三、四人で小さい子を背におんぶして、とぼとぼと自炊しながら何日かかけてムダンサしてきた家族が居た。野宿をすればオンサの遠吠えなども聞くものであるが、動物の恐れる火をたきながら火を中心に、或いは二ケ所に火を燃やしてその間に休む様な事をしてきたものと思う。私も経験は有るが、マットの中の野宿は淋しいものである。海岸山脈は殆ど毎日の様に夕立が降るものであるが、それをこの家族は自炊しながら何日もかけて兎に角ムダンサして来たのであった》(66頁)
さらに《一、二年のうちに植民者の半数以上の家族が他地方に移動し、植民地は大変に淋しい状態となっていくのであった。いや事実上崩壊したのである》(『昔話』第10巻87頁)
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後にスザノ福博村で文芸活動をしていた則近正義は、両親に連れられて1934年7月にセッチ・バーラスに入植する予定で渡伯した。途中ジュキア線の汽車で旧移民から「あそこに入植したら食べて行けない」と警告され、父が日本での話と違うと海興に抗議した時の様子をこう記す。
《当時セッチ・バーラスの海興にいた柔道何段だとかいう藤平正義は、まるで威嚇するように革ゲートルをガチャガチャ踏み鳴らして、何回か父を半強制的に海興の事務所に引っ張っていった。海興は父が日本で預けた金を入植しなければ渡さないと威し、父は金なんかいらない、自分は日本に帰って外務省か拓務省に行って海興の悪事を暴露してやるんだと負けずに応酬した》(53年8月8日付けパ紙寄稿文)
後にサドキン電球工業の山本勝蔵社長、豊和工業の藤平正義社長ら戦後実業家になる有望な若者が、そんな海興で働いていた。(つづく、深沢正雪記者、※著者訪日のためしばらく休載)