ニッケイ新聞 2013年10月3日
金品以外に、性的被害も出ていた。
加藤は色情狂であった。
川崎や島崎という女性(農場支配人の妻)が、宮様に奉仕する女性を、同志の娘の中から選び、加藤に仕えさせていた。 このことは、後に島崎が後悔して、事実関係をすべて話している。
10人余の娘たちが、サント・アマーロの別宅に、軟禁同様にされ、加藤のオモチャにさせられていた。
これとは別に、地方からサンパウロに来て、加藤の本宅に女中として勤めていた娘さんに関し、次の様なことがあった。 1953年3月、彼女は、ある夜、就寝中、押し入ってきた男に犯された。気を失ったため、それが誰であるかは判らなかった。
6月末、加藤によって強制的に、モジの同志の息子と結婚させられた。 翌年1月、赤ン坊が生まれた。が、結婚から出産までの月数が合わなかった。赤ん坊の顔は加藤そっくりだった。
加藤は、風呂場で彼の背を流していた人妻に挑みかかり、失神させたこともあった。
自分の娘に、加藤の側妻になることを説得した親もいた。加藤を天皇の特使、宮様と信じていたのである。
右の性的被害も、移民史料館保存の記事に、筆者が目を通しながら、要点のみ抜書きしたものだが、紙面からは、記者やデスクの興奮が伝わってくるほどだった。
しかし、これほど大騒ぎになった偽宮事件であったが、4月、突如、加藤も川崎も釈放され、事件は終わってしまった。加藤・川崎側が弁護士(非日系)を雇い、切り抜けたという。
対して被害者側は、まとまりと気力がなく、告訴すらせず、泣き寝入りしてしまった。
(加藤は、やはり宮様かもしれぬ。もし、そうだったら、告訴などしたら、大変なことになる)と迷い続けていたためもあった。
これには、それまでは夢中になっていた新聞側も、唖然として、続報のつくりようもなかったらしい。以後の関連記事の行間からは、体裁の悪さを隠しようもなく、困りきっている記者やデスクの様子が、浮かび上がってくるほどだ。
事件から50年以上後のある日、筆者は、当時シッポーの農場に居た被害者の一人と会うことができ、話を聞いた。筆者が知りたかったのは、
「新聞記事に書かれているようなことが、事実あったかどうか」
であった。
答えは「事実あった」だった。
しかし筆者は、少なくとも「娘を献上した」などということは信じられなかった。仮に親が命令しても、当人が承知する筈がない。
しかし「昔の日本人の家庭では、(ブラジルに来て長く経っていてもも)父親の命令は絶対だった」という。
今の娘さんたちとは、全く違っていたのである。それと、その段階では彼女たちも(本物の宮様)と思っていたのだ。
ともかく、こうした相次ぐ時局便乗詐欺で、日本型ナショナリズムは、穢されるだけ穢された。(詳細については『百年の水流』改訂版1Ⅰ章参照)
ナショナリズムも流行の一種
第二次世界大戦を境に、世界的なナショナリズムの大流行はピークを越した。以後、大勢として、ナショナリズムの熱度は下降線を辿った。
ブラジルでも「エスタード・ノーボ」は、歴史上のできごととなった。
日本に於ける激変については、ここで改めて記す必要はなかろう。
コロニアでも、勝ち負け騒動が終った1954、5年頃には、戦前・戦中の信念、信仰は、急速に薄れつつあった。
イデオロギーであれ、若者のファションであれ、流行というものは、所詮、時がくれば、アラが見えて来て、飽きが始まる……ということであろう。
今日でも、なお、為政者が古風なナショナリズムを煽り立てている国もある。が、実態は、政権維持あるいは外交上の道具として利用しているに過ぎない。(つづく)