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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(92)

ニッケイ新聞 2013年10月4日

 サンパウロで起きた襲撃事件の実行者で、本稿にしばしば登場した人々の、その後に触れておく。
 実行者たちは、裁判の結果、20〜30年の懲役刑を受けた。が、いずれも半分以下で仮釈放となった。
 筆者が、この人々の取材を開始したのは2001年であったが、その後、蒸野太郎が2009年8月、そして山下博美が2010年10月に亡くなった。蒸野が90歳、山下が85歳であった。
 関与者の押岩嵩雄は、5年で拘置所から釈放となった。2007年3月、永眠した。97歳であった。
 残っているのは日高徳一、三岳久松の二人だけである。

 日本生活は20日間だけだった日本人

 山下博美が亡くなる少し前、筆者は当人と雑談していて、あることに気づいた。
 この人は、その長い生涯に於いて、日本での生活は実質20日しか味わっていない、と。
 3歳でブラジルに渡ったから、日本のことは何一つ覚えていなかった。その後、日本へ帰ったのは一度だけ、71年後の1999(平11)年のことで、その滞在期間が20日間であった。
 つまり山下の日本での生活は、その85年間の生涯に於いて、実質20日間だけだったのである。しかし、純粋に日本人として育ち、青年期、皇室と祖国への思いから決起した。そのことで一生は決った。出所後は、社会の片隅でヒッソリ、質素に暮らした。
 決起の真意は、認識派からは曲解され、狂信者と蔑まれ続けた。
 後悔は無かったのだろうか。「なかった」と山下はハッキリ答えた。
 晩年、食事は日本食をとり、暇があれば、日本の音楽を楽しんだ。2000年に、日本で海外居住者の選挙権が認められると、早速、手続きをとり、以後、選挙のたびに投票した。
 「意識して、そうしたのではなく、自然にそうなった。おかしなものですネ……」
 と、本人は静かに笑って言った。
 訪日した時は、日本がどれだけ復興したかを見ることに、目的を絞った。その復興ぶりは感激の一語に尽きた。「よかった、日本はやるゾ、敗戦論者の日本観は事実と違う」と思った。
 山下の20日間に気づいた後、日高徳一に会ったとき、同じことを話題にしてみた。
 彼は6歳で渡航したから、日本のことは、多少覚えていた。訪日は、やはり一度だけ。1985(昭60)年、40日間ほどであった。
 靖国神社に詣でた。そこで、一日を過ごしてしまった。阿南陸相の自決刀、遺書を見た。明治神宮に参拝し、北は会津飯盛山、函館五稜郭、北方領土を訪れた。郷里、延岡に戻った時は、近くの城跡に行った。子供の頃の記憶が蘇った。
 現在は、暇な時はNHKの衛星中継をみたり日本のことを考えたりしている。在外選挙もしている。
 蒸野太郎はどうであったろうか? 知りたいと思った時、当人は故人となっていた。が、日高が代わりに答えてくれた。 蒸野は、18歳で渡航しているから、日本のことは充分覚えていた。
 刑期を終え出所後、テレビ局に職を得た。技術部門の仕事で給料も良かった。ところが、そのテレビ局が国営化され、職員はブラジル国籍を持つことが必要になった。蒸野は日本国籍だった。帰化するためには日本国籍を捨てる必要があった。
 上司が帰化を、再三勧めたが、蒸野は断って退職した。その上司は「気持ちが変わったら、いつでも戻って来い」と言ってくれた。が、戻ることはなかった。日本国籍を捨てることなど考えられなかったのである。
 以後、生活は窮迫したが、食べられればよし、とした。

 2008年、移民百周年の折には、この人々をテレビ・新聞の取材者が多数訪問した。日本からも次々と来た。ただ3人とも、取材者が、当時の自分たちの心を、どの程度つかんでくれたか……に疑問を抱いた様子であった。言葉では通じない何かがあったようだ。
 60年以上も前のことであり、取材者が、歴史に精通していない限り、無理であったろう。(つづく)