ニッケイ新聞 2013年10月8日
終戦から60年以上経った現在でも「日本は勝った」と信じている人々が居る。
全部で、どのくらい居るのか、見当がつかないが、筆者は偶々3人会った。ことさら探したのではない。別の取材の最中、そうと知ったのである。
全員がブラジル生まれである。2010年のある日、3人に集って貰い、話を聞いた。
3人とも本稿で、すでに登場している。内二人は女性で、ポンペイア出身の旧姓白石静子(79歳)、悦子(77歳)の姉妹、一人は男性で、名誉下院議員の救仁郷靖憲(77歳)であった。
3人はファナチックなところは全くなかった。姉妹は明るく朗らかで、実際の年令より、ズッと若く見えた。救仁郷は温和な紳士であった。
自然に湧き出す天皇・日本への真情
「日本が勝ったと信じている」といっても、1945年8月のポツダム宣言受諾は、無論承知の上の話である。
以下は、3人の話の一部要旨である。
「米国が原子爆弾を使ったために、罪も無い、戦闘員でもない国民が、大勢死にました。
それで天皇陛下が、これ以上、国民を苦しめたくないと思って、戦争を終わらせたのでしょう。 原爆の使用などは、全く卑怯なやり方です。個人の戦いもそうですが、卑怯な人間とやっても、仕方ない。卑怯な人間は、どこまでも卑怯なことをやる。だから、こちらが負けたことにして、ヤメる以外ない。
しかし、その様な場合、真実、勝ったのは、負けたことにした方です。天皇陛下は、それを考えて『ヤメましょう』と言われたのだと思います。だから、敗戦と言わず、終戦と言ったのでしょう。
日本は、形の上では負けたけれど、精神で勝ちました。負けたことにしておいて、黙って国家再建のため懸命に働き、それを成し遂げたのです。それが真に勝つということです。日本は戦後、一等国となりました」
姉妹は、一度ずつ日本を訪れたことがある。「綺麗な国ですね」と嬉しそうに顔をほころばせた。ハッとするほど、美しい表情、目の輝きだった。救仁郷は、仕事柄、何度も行っている。鹿児島の、両親の故郷も訪れた。救仁郷家は士族で名家であると誇る。
筆者は最後に、こう訊いてみた。
「アナタ方は、自分を日本人だと思うか、ブラジル人だと思うか、それとも、その両方だと思うか?」
これは、無論、法的な国籍は別にしての、素朴な真情に関する質問である。
3人の答えは「日本人」であった。一人が「血がそうだから……」と付け加えると、他の二人も頷いていた。
筆者は、話していて、直感で判ったのだが、山下や日高にしても、この3人にしても、戦前・戦中の日本型ナショナリズムを、そのまま引きずっているのではなかった。その後、60数年の長い歳月を経て、自然に心の奥深くから、湧き出して来る天皇や日本に対する真情を、素直に語っているに過ぎなかった。(おわり)
《参考文献》
○ブラジル日本文化福祉協会移民史料館・図書館=日伯新聞、伯剌西爾時報、サンパウロ州新報、サンパウロ州新報刊『在伯日本移植民廿五周年記念鑑』、在伯日本人文化協会編『ブラジル新憲法審議会に於ける日本移民排斥問題の経過』、西川武夫手記、山内健次郎手記、コチア産組編『週報』、各種ポ語新聞、高木俊朗著『狂信』、岸本昂一著『南米の戦野に孤立して』、東谷朝夫著『秘密結社興道社の真実を語る』、斉藤広志編『伝記 蜂谷専一』、猪股嘉雄著『空白のブラジル移民史』、水野昌之著『バストス二十五年史』、玉井禮一郎著『拝啓、ブラジル大統領閣下』、ほか多数。
○サンパウロ人文科学研究所資料=オールデン・ポリチカ調書、吉井碧水手記『獄中回顧録』、多田幸一手記、手記『旋風吹荒むジュキア線』、半田知雄日誌、パウリスタ新聞刊『コロニア戦後十年史』、石井射太郎著『外交官の一生』、ほか多数。
○その他=『ブラジルに於ける日本人発展史』上下巻、香山六郎著『移民四十年史』、ブラジル日本文化協会編『ブラジル日本移民70年史』、日本移民八十年史編纂委員会編『ブラジル日本移民八十年史』、サンパウロ州政府公文書保存館資料、佐藤正雄著『アンシェタ島追憶記』、雁田盛重手記、大宅壮一著『南米の裏街道を行く』、平原哲也著『日本時間』、ほか多数。