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連載小説=日本の水が飲みたい=広橋勝造=(28)

ニッケイ新聞 2013年10月22日

 中嶋はジョージのアパートを出ると直ぐに方向が分からなくなった。数珠を左手に掛け、立ち止まり、目を瞑ると今まで経験した事がない自己暗示の幻覚が現れ、聴覚や嗅覚も驚くほど鋭くなった。
 中嶋は、科学万能主義者では絶対に説明出来ない不思議な力で、左方向から漂ってくる僅かな線香の匂いを嗅ぎ取った。それも、宮城県人会館の屋上で西谷が立てた線香の匂いであった。
 中嶋は始めて経験した霊香(れいこう)に導かれ、十五分後には宮城県人会館の前に立っていた。
「中嶋和尚! お一人で!? ・・・、さあ! どうぞお入り下さい」
 西谷は中嶋の法衣姿に目を細めて喜び、先没者の慰霊碑、仏壇と神道の奉棚(たてまつりだな)を一緒にした神仏習合型の祭壇がある屋上に案内した。
「では、二〇〇七年五月吉日、宮城県人先没者の法要を始めます」そう言って、中嶋は御鈴を『チ〜ン、チ〜ン、チ〜ン』と鳴らし、西谷が用意した宮城県人会先没者名簿(記録帳)を前に置き、経文を唱え始めた。
 西谷はその間、二人の常任事務員、他の階でボランタリー活動で縫い物をしていた婦人会のメンバーや宿泊している日本からの交換留学生、それに、ブラジル人の守衛と掃除のおばさんまで駆り出して焼香させた。
 中嶋は、漂っている沢山の哀霊(あいりょう)を感じ、成仏させようと全魂をかけて読経を続けた。ただ一心不乱に続けた。
 すると、仏さまの仏さまである『お釈迦』さまが、ブラジルに初めて訪問されたが如く、右手を天に左手を地に指して、この大地に誕生を意味するお姿で現れ、仏界一の光輝を発した。それを浴びた哀霊達は一瞬にして成仏していった。同時に、中嶋と滅多にないチャンスと駆けつけた正体不明の観音も、その功徳(仏の恵み)の光を全身に浴びた。
 『お釈迦』さまが衆の願いをかなえた事を示す『与願印』(よがんいん=手のひらを外にして下に垂らす印)を左手に示し去ってゆかれると、功徳を得た正体不明の観音から白い霊雲が湧き出て中嶋を包み、その後ろに立つ西谷を包み、更に宮城県人会館を覆い、日系人の多い東洋街を包みこんだ。半時間後に法要は終わった。
「先没者の追悼法要、終わりました」
「ありがとうございました」
「西谷さん、きっと先没者の皆さんが貴方に感謝されておられます」
「これも、中嶋和尚のおかげですよ」
「成仏されずにおられた先没者は、この法要でお『釈迦』さま直々の功徳(仏のめぐみ)によって成仏され、私もこの功徳を賜りました。こんな事が私の身の上に起こるとは思ってもいませんでした。それも、ブラジルで・・・」