ニッケイ新聞 2013年10月30日
写真=1928年当時のレジストロ市街の様子、現在のPraca dos Expedicionarios(『20周年記念写真帳』15頁)
海興職員だった野村隆輔の目から見ても、《レジストロ植民地として一番危機に瀕したのは大正十二年、即ち一九二三年前後であった》(野村『思い出』30頁)とある。人文研『年表』によれば、1914年のコチア植民地、15年の東京植民地(パウリスタ線)、平野植民地(ノロエステ線)、17年のブレジョン植民地(ソロカバナ線)と続々と集団地が誕生した時期だ。特に18年に上塚(イタコロミー)植民地が創設された時には「移民の父」上塚周平を慕って続々と集まった。
ノロエステ線などで次々に新植民地が開かれて、土地の善し悪しが比較されるようになった時代だ。そこを視察したものが良い土産話ばかりするので、レジストロでも動揺が広がった。
《余裕のある者は所有地を二束三文で売り払って転向するものが日に日に増加の傾向を示して来た。会社側としては全力を傾注して、或は懐柔に、手を変え品を変えてその防止に大童であった。吾々会社関係の者から見ても、余りにも姑息で拙いなと思われる様な対策が講ぜられて居た》(野村『思い出』31頁)
1923年6月に建設開始された上塚第二植民地(グァインベー)への勧誘は、あの手この手で行われ、そこへの集団移転をきっかけに脱耕者が増加したようだ。
上塚第2植民地の立案者は石橋恆四郎(つねしろう)、粟津金六、笹田医師の3人だったが、山口県出身の野村隆輔にとって、石橋は母校の先輩にあたる。彼から招待された野村が、笹田医師、西郷隆治(南州の孫)、八重野松男らとスキヤキを囲んだ時、《レジストロ植民地が目下動揺している故、仲間入りして後方錯乱の役を買って貰いたいという》(野村『思い出』31頁)との密談を受けた。野村は断ったが、多数の入植者が移って行ったという。
半田知雄は1930年前後の様子を次のように分析する。《米作の連作で地力が減退し、米値の下落で営農が行き詰まったとき、はじめはサンパウロ州奥地のコーヒー景気、つぎには棉花景気のために、彼の地へ移動したもので、今日水郷として誇るリベイラ河畔のレジストロ植民地も、当時は輸出向き永年作物がなかったために同胞間に好評を得ることが難しかったのであった》(『生活の歴史』354頁)
1917年から1931年までのセッチ・バーラスへの入植者と脱耕者の数が『生活の歴史』(354頁)にでている。入植者=329家族(1820人)、脱耕者=113家族(670人)とあり脱耕率は34%だ。
意外なことに、レジストロの入植者=679家族(3088人)、脱耕者=326家族(1403人)で脱耕率は48%となり、セッチ・バーラスより高い。ほぼ2軒に1軒が脱耕するという状態で、半田は《おどろくべき植民地脱出者があった》(『生活の歴史』354頁)と評している。桂を合わせた3植民地全体では、入植が1060家族(5121人)、脱耕が462家族(2210人)となっており、脱稿率は44%だ。
おそらく沼田信一や山根善信がいうセッチ・バーラスの「〃植民地崩壊〃的な状態」とは、その後に起きたのだろう。
さらに半田は《1926年ごろ、レジストロに旅行したある同胞の話によると、「旅費や資本のあるものは、皆奥地をめざして出て行きましたよ。わしらは、動くにも金がないので、まあ、こんなにして辛抱しているわけです」という植民者の告白を耳にした、ということであった》(『生活の歴史』354頁)と記している。
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そんな1920(大正9)年6月に、移民史を画す運命の出会い、〃焚火の誓い〃がレジストロで起きた。(つづく、深沢正雪記者)