ニッケイ新聞 2013年10月30日
日本がオリンピック景気に沸いていた1960年初頭、蓑輪さんは東京でサラリーマンをしていた。経済的余裕がなくて帰郷できず、靖国神社の盆踊りを見ながら24歳の盆を過ごした。「やぐらの上での一人打ちを見て、いつかやってみたいと思った」と、当時の感動を回想する。
上京4年後に故郷の宮城県串間市に帰った。働き盛りの若者は都会にデカセギに出ており、村からは盆踊りは消えていた。
37歳の時、町おこしの一環として青年らによる和太鼓チームを立ち上げた。さらにそれから2年後、家を建てたのを機に「盆踊りを復活させたい」と決心。地区の住人や婦人会を巻き込んで、歌い手、踊り手、奏者をつのって準備し、20年ぶりに町に盆踊りを復活させた。
塾の経営、中学校の非常勤講師、農業と3足のわらじを履いて、土日や週末を太鼓にあてる日々。台湾やシンガポールにチームの子どもたちを連れて演奏やワークショップにも出かけた。そこで「外国人が意外と興味をもつな」と手ごたえを得たことが、JICAボランティアに志願するきっかけになったという。
「初めて買った太鼓は、死んだ祖母が残してくれた100万円で買ったもの。だからばあさんの太鼓がある限り、太鼓はやめられない」。村の太鼓チームから巣立った娘の真弥さんは、そんな父の想いを引き継ぐかのように、世界を股にかけるプロの和太鼓集団「鼓童」で活躍している。
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契約を更新しつつ7年弱を当地で過ごしたが、「3年前、1カ月延長した間に親父がなくなった。お袋ももう87歳。何かあったら大変だから」とつぶやく。ブラジル勤務は今回を最後にし、もっと近場に勤務地を変えることも考えたが、結論はまだ出ていないという。
「ブラジルには、これからW杯に向けて、色々な場面があるはず。政府からの助成金や公益団体認定も必要になってくる。もしこれが最後になっても、全伯大会には毎年出席したい」。
恩師が全伯に蒔いた種は、これからどこまで育つのだろうか。次の赴任地がどこであっても、当地にエールを送り続けてくれることだろう。