ニッケイ新聞 2013年11月2日
レジストロ第1回植民団の松村栄治を父に持つ昌和(91、二世)は、「私は会ったことないが、父は輪湖俊午郎さん、北原地価造さん、永田稠さんとも知り合いだった」と振りかえる。栄治は1923年に一時帰国した折り、実は当時の長野県知事・本間利雄に頼まれ、ブラジル帰りを見込まれて、アリアンサ移住地資金集めの講演をして手伝っている(『北原地価造追悼集』72年、100頁)。
本来はレジストロ永住派として、アリアンサを手伝うなどありえない話だが、知事の頼みとあっては断り切れなかったのだろう。昌和は「アリアンサ建設の時、北原さんが来て『リーダーになってくれ』と誘われたと父から聞きました。でも父は『絶対にレジストロからは出ない』と断ると、『せめて見に来るだけても』と粘られ、4、5人誘って見にはいったそうです」と思い出す。
父栄治はその時にアリアンサを視察した感想を、こう記している。《一九二五年、輪湖さんが迎に来て呉れて初めてアリアンサに行き、北原さん宅で三晩お世話になった。当時収容所の建物が八分通り出来て居って丁度井戸掘りをしている最中であったが、レヂストロの起伏の多い地形に比較して平坦な利用価値の多いその地形に驚いた》(『北原地価造追悼集』101頁)とある。
アリアンサ入植が本格化した1924年、永田は人集めのためか、敢えてレジストロへ乗り込むという行動にでた。当然、海興は歓迎しない。
《一九二四年、永田会長はアリアンサ植民地の産婆役であった。多羅間領事並びに同植民地の支配人輪湖俊午郎氏と共にレジストロ植民地に来遊された。その頃海興本部の幹部級と永田会長は犬猿の間柄であった。その経緯は知らぬが、或いは永田会長の放言が祟ったのではないかと思う。サンパウロ市本部からは永田氏に対しては、会社としては特別待遇の要なしとの指令が来て、白鳥所長は頭痛鉢巻きの体であった〜》(野村『思い出』48頁)
その一行は、かつて輪湖が一時期入植していたセッチ・バーラスを視察し、会社専用のカモメ丸を出したが、《艇内で永田会長や多羅間領事が盛んにアリアンサ植民地の土地の肥沃の自慢話が出て、遂々レジストロ植民地の痩せ地論まで出て、甚だ耳が痛かった》(野村『思い出』48頁)。永田会長の話は《一点非の打ち所のない名演説ではあったが、聞き様によれば最早入植したのが因果で仕方ないが、痩せ地でも努力次第ではなんとかなる、頑張ってくれという風に取れぬ事もない》(野村『思い出』48頁)という具合であった。
それを傍聴していた野村隆輔は、当時セッチ・バーラスの主任だった野村秀吉に《貴公捨て石になる覚悟はあるかとやゆしたら、同君苦笑いをして、僕は本年限りで逃げ出す積もりで尻に片帆をあげている処だとささやいた》(野村『思い出』48頁)。この野村秀吉の息子が丈吾でレジストロ生まれだ。家族でマリリアに移転し、市議、州議、連邦下議に上り詰めた。孫のアウレリオも現在、サンパウロ市の市議会議員を務めるなど、同地出身者の中でも特異な系譜を築き上げた家系だ。
このような経緯から、現在のレジストロ地方の特徴を裏付ける長野県人大量導入の端緒を開いた輪湖が、同地の歴史に最も詳しい『レジストロ植民地の六十年』からきれいに削除され、一度も出てこない。北原地価造は役員を務めている関係で3回だけ出てくる。「信濃村」は最初レジストロに作られるはずだったが、永田に共鳴して周囲の長野県人まで引き連れて飛び出したために、海興から〃裏切り者〃的に扱われて歴史から抹消されたのではないか。
現在からすれば、レジストロ植民地建設の経験は、アリアンサ移住地以降、20年代に続々と建設される大規模集団地に体験的に活かされたという意味で、非常に重要な意義があった。(つづく、深沢正雪記者)