ニッケイ新聞 2013年11月5日
青柳育太郎は海興重役に留まったが、最終的に《二十四年に至って青柳は帰国したが、その後意見の相違から辞任、東京シンジケート以来からの植民事業の鬼もこれから絶縁する事になった〜》(『60年』14頁)とある。ブラジル側では「青柳は負債問題解決のために帰国し、移植民が納得するような解決策をとれなかった責任をとって失意のまま海興重役職を辞した」と言われている。
その直後25年当時、自治組織「共拓会」総会で次のような突き上げがあった。《誰かが海興は移住地選定を誤ったのである、上手な宣伝に乗せられて移り来た我々こそ可哀相である、しかるに海興は植民者を救助しない、会長の意見はいかにと質問した。
当時の会長は海興の植民係大野長一氏であった。会長は答えて、会社は断じて移住地の選定を誤ったのではない、と大乗的に植民政策上の要項を挙げて説明、古い歴史を持つサンタカタリナ州独逸人植民地の例を引いて植民者側の自重を要望されたことを記憶している。
会長の答弁は見事であったが、会員の質問もまた実に切なるものがあった。こと志に反したやるせなき煩悶の情と刻々と募る将来への不安に耐え切れず救いを求めた歎願であり、同時にまた大多数の植民者を代表した質問でもあった》(『暁の星布教沿革史』47頁)
大野は海興職員として同地に24年間勤務し、道路係として植民地内外の約300キロを完成させ、入植者の配置、指導監督などもした。ところがその後海興を辞め、1939年に日伯産業株式会社に入社、パラナ州ウライ地方の土地分譲地測量部などを務めた。
『移民40年史』にもこうある。《(イグアッペのような)国策的植民地も、奥地の自由植民地の溌剌たる経済発展ぶりに幻惑され出した(中略)植民地の不平植民等も奥地の模様を視察した。その結果、ノロエステ線へ、パウリスタ線へ、ソロカバナ線へ、パラナ州へと転向し始めた。植民指導者級も相当レジストロを去った。彼らのうち、国策植民地の改善案を掲げて、奥地に国策植民地を建設したものもある。アリアンサ植民地等がレジストロ植民の不平組によって企画成就されたのであった》という時代の流れを誰も止めることはできなかった。
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ただし、『先駆者傳』(535頁)に興味深い一節がある。《一九二九年、松岡、谷口、野村氏の一行十二人は、青柳氏の命によつて、パラナ州の原始林地帯の大踏査をなし、アフオンソ・カマルゴ州知事との間に、百万域の開拓権と、アントニーナ港に出る幹線鉄路敷設権の仮契約を結んだ。一九三〇年の革命で、ワシントン・ルイス大統領失脚のため、可惜(惜しくも)、契約は白紙に化した由である》とある。青柳は帰国後も影響力を持ち続け、次の開拓地を〃ファルクァール帝国〃弱体後のパラナ州に託していたのか。ヴァルガス革命が起きなければ次は南パラナだったかもしれない。
一方、水野龍は1924年、青柳と入れ替わるようにブラジル永住を決めた。息子の龍三郎によれば、1923年9月に関東大震災に遭った妻万亀(まき)は「こんな怖い思いは二度としたくない。地震のないところへ連れて行ってください」と懇願し、それを機に翌年、すでに65歳だった水野は海興を辞任し家族を連れて渡伯した。37年8月にパラナ州ポンタ・グロッサ市に州知事から土地を取得し、水野はコロニア・アルボラーダ「土佐村」を建設した。青柳も水野も同じような方向を向いていた。
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この初期の2大巨頭が海興から抜けた頃、24年に社長に就任したのが井上雅二(まさじ)だ。彼は37年まで同社長を務め、日本側から移住事業を進めた中心的人物で国粋的な思想を持つ。2大巨頭に通じる国際的な視野を持つ〃民間の国士〃的な観点からアリアンサ移住地建設を進める永田や輪湖と対立するように、官側から移住事業に影響力を行使していった。(つづく、深沢正雪記者)