ニッケイ新聞 2013年11月6日
移民送り出しは元々、外務省が主管する事業だったが、徐々に内務省が力を持つ流れとなり軋轢が生まれていった。
イグアッペ植民地の〃造反組〃が中心となった1924年の信濃海外協会による第1アリアンサ創設は成功し、瞬く間に鳥取が第2、富山が第3、熊本が隣接地のビラ・ノーバという具合に拡大した。これら4県の海外協会の動きは、県および民間による事業で、どうしても資金面の限界があった。
この民間主導の方向性に国の資金をいれて国策化するためには法的な枠組みが必要だった。そのために永田らは「海外移住組合法」制定の働きかけをした。
それに対し、官側からの反発が生まれた。当時移民送り出しは海興か海外協会だった。海興は主に珈琲園労働者を扱い、1940年末までに実に16万4千人ものブラジル移民を扱った。戦前移民が計19万1千人だから、大部分が海興斡旋だった。
その利益重視のやり方に反発したのが、海外協会を作って独立農を送り込んだ永田ら民間の動きだ。海興は独立農入植者が増えると珈琲園労働者が減ると心配し、別の「海外移住組合法」を1927年8月に成立させ、永田らの意図とは違う内容にすりかえた。これではアリアンサなど既存の海外協会の移住地に資金が入らない…。
この海外移住組合法の《法制化を機に1927年以降、各府県に知事を理事長とする海外移住組合があいついで設立され、その中央機関として海外移住組合連合会が組織された。だがその内実は信濃海外協会のように移民事業に精通している協会は排除され、井上雅二海興社長や内務省社会局長守屋栄夫などが中心になっていたものだったようである》「誰が移民を送り出したのか」(坂口満宏、立命館言語文化研究21巻4号、63頁)。
つまり、外務省主導だった移民政策に内務省の影響が強くなってきた。内務省は同法案が議会を通過するや、各県に移住組合設立を促し、その連合機関として中央に「海外移住組合連合会」を組織した。連合の理事長は外務省から田付七太元駐伯大使、専務理事は元内務省官僚の梅谷光貞という布陣だった。
梅谷は1927年8月に就任し、12月には現地責任者として着伯した。18カ月も現地に滞在し、輪湖俊午郎を右腕として交渉して回った。県別に5千町歩ずつ移住地用地を取得して「何々村」という形で集住させ、移住地経営の責任は各県の移住組合が持つという構想を推進した。
《その計画の内容はさすがに内務省人に相応しく、極めて一方的であり恰(あたか)も日本領土内において試みられるべき形態の如き観さえあった。その結果、いたく外務省駐伯官憲の反感を買い、せっかく重任を負いて万里に使いした梅谷理事は之がため、着伯劈(へき)頭より意外な難礁にのりあげねばならなかった》(輪湖『流転』261頁)
しかし、移住組合ではブラジルでの土地購入が法的にできないことがわかった。《しかも内務大臣が連合会の理事長をつとめるという国家臭の強さがブラジルでの排日を強めかねないという在外公館からの反発もあった。そこで同連合会は現地法人として「ブラジル拓殖組合」(通称「ブラ拓」)を設置し、ブラ拓名義で土地の購入にあらせ》(坂口満宏、63頁)ると同時に、民間主導のアリアンサ移住地を強引に編入していく手段を講じた。
内務省は梅谷に対して、無謀ともいえる急がせ方をした。内務省としては1928年4月には、各県組合の移住者を渡伯させる予定まで組んでいた。「ブラ拓」設立前、梅谷はバストス、チエテ、北パラナのトレス・バラス等の合計20万町歩もの土地を、わずか7カ月のうちに彼の個人名で購入するというブルドーザーのような仕事振りを発揮していた。ほぼ2000キロ平米であり、なんと東京都(2187キロ平方)に匹敵する面積だ。(つづく、深沢正雪記者)