ニッケイ新聞 2013年11月6日
新しい国に入ったさいの記者の習いは現地ビールを飲むこと。入国審査で感じることの多い悪印象と先入観をまずは洗い流し、今後の期待感を高揚させるのが目的だ。
70ドミニカ・ペソ、4レアルほどだろうか。空港でこれだと一般価格は…早くも入国即ビールの効果あり。ラベルには「プレジデンテ」とある。今回の旅行中、連呼に近いほど使ったが、移住者からよく聞いた言葉でもある。「大統領が61年に暗殺されてから運命が変わった」と。
トルヒーリョ大統領は親日家だった。日露戦争に勝利した年に生まれた娘にハポネッサ(日本人)とつけるほどで、55年にドミニカを訪問したニクソン米国副大統領から、日本移民の優秀さを聞かされたことで、さらに積極的となったとされる。
大手メディアが「カリブ海の楽園」「ほくほくの条件で」と煽り立てた募集要項には、300タレア(18町歩)を無償譲渡とあった。しかしドミニカのコロニア法では「10年耕作後」という一項があり、自由作付けは1割、収穫が見込めなくても草をはやすと「没収」。加えて、「300タレアまでの土地」の〃まで〃が翻訳されず、送り出しに不都合な部分は全く移民に知らされなかった。
そのうえ、独裁政権に召し上げられた格好の土地だったため、大統領暗殺後、地元住民の反日感情が高まり、収穫間近となった畑に牛馬を放されたり、勝手に家を建て始めたりしたことが、前年からの帰国運動に拍車をかけた。
首都も移民の着いた当時は「シウダー・トルヒーリョ」だったのが、暗殺後は元のサントドミンゴに戻されているほど。そんな政情に翻弄された移民らの悲劇を思うと、このビールも苦いものになる。
「あー声で分かりましたよ。昔の面影がありますね」。出迎えに来たガイドの内藤益宏さん(69、東京)と、参加者の南澤(旧姓帆士)法子さん(70、福岡)が笑顔を見せている。
二人がいた国境近くのアグア・ネグラ移住地は、サントドミンゴ港から軍用船でカーボ・ロッホに行き、石灰岩の崖のような悪路を上っていった。むき出しの岩盤がトラックの底にぶつかる。日本でコーヒー園と聞いてきたが一本もなく鼻のつくような急勾配が〃畑〃だった。
当時、大使館などに陳情にいくため家長会議が頻繁に開かれた。「父が家にいないから母が大変な思いをしましたよね」と話す南澤さん一家は62年、ブラジルのJK植民地へ転住。内藤一家も翌年、現在住む海岸の町に移った。
アグア・ネグラにはただ一人、田畑初さん(93、鹿児島)が残っている。実は南澤さん、10年前に訪問している。「奥さんは亡くなったようですが、お元気そうでしたよ。ハイチ人を使って石灰岩の崖のところどころある土にコーヒーを植えて。広い土地でね。残って良かったんじゃないでしょうか」
大使館の現地職員を72年から33年間勤め、訴訟には反対の立場だったという内藤さんは「田畑さんがまだ頑張っている。一人でもそういう人がいるのに、全員が失敗したように言うのは疑問がある」と話す。
田畑氏は現在2000タレアの土地を所有し、「現地人が暮らしているのだから、我々が生きていけないはずがない」と今も畑に向かう日々を送る。改めて二人に、アグア・ネグラの土地の感想を聞くと声を揃え、「最低でした」。(堀江剛史記者)
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会うことは出来なかったが、田畑さんの言葉からは〃移住〃ということを考えさせられる。「国援法で日本へ帰りたくはなかったとたい。わしは長男だし、両親、弟を呼ぶつもりでここに来たとたい…」(—楽園、87年)、「我々が当地に残留した選択は正しかった」(ドミニカ日本人残留移民の証言、06年、北欧商事出版)。