ニッケイ新聞 2013年11月12日
第46回で紹介した通り、1920年当時、唯一の本格的植民地だったイグアッペが排日派議員の非難の的となり、1923年10月には1回目の排日法提案がレイス下院議員からあった。でもイグアッペはその批判に耐え、サンパウロ州選出議員の反対で可決されなかった。だから20年代の移住地建設ブームが起きた。
排日法案の前月、9月の関東大震災で移民送り出し圧力が高まり、米国で翌1924年に排日法案が成立して行先をふさがれ、渡航費補助でブラジル移住が激増する流れにのって、イグアッペでの経験を活かして建設されたアリアンサ移住地は第2、第3と成功裏に拡大した。
その民間主導の流れに国の資金を入れて〃国策的〃にしようとした時点で、外務省や内務省の策動に絡み取られ、永田らが目指した内容とは別の海外移住組合法が成立してしまった。
内務省が移住政策に影響力を持つようになった背景には、当時の日本軍部がナショナリズム熱を高め、国際協調路線を次々に排除する流れがあった。そんな2省の軋轢を解消するために1929年に拓務省が作られた。1931年に満州事変が起きて以降、32年から拓務省と関東軍が主導して同地に試験移民を送り始めた。
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そんな日本側の動きを脅威に感じていた急先鋒が、ブランキアメント(白人化)を信奉するミゲル・コウト下院議員ら医学界の重鎮だった。彼らの先導で、ヴァルガス独裁政権は1934年7月に実質的な排日法「二部制限法」を制定し、ブラジルへの移民送り出しを塞いだ形になった。
日伯関係の悪化を懸念した広田弘毅外相は〃民間外交〃に解決を委ねた。35年4月に平生釟三郎を団長とするブラジル訪問経済使節団(川崎造船、東洋紡、伊藤忠、大阪商船、三井物産、三菱商事など)を派遣して国家間関係強化を託した。
《日本の世界的な繊維とブラジルの綿花を結びつけ、世界貿易に双方貢献することなどを掲げ、両国要人の共働を押し進めた。短期間でブラジルの対日綿花輸出額20倍増など驚異的な成果を供し資源確保にも貢献》(会報『ブラジル特報』2010年7月号)となった。
そして《「ハワイや米国で排日運動が激しくなったのは、勤勉な単純労働移民が現地労働者の職を奪う事になったのも一因。植民地を資本家が準備して自営農を育て定住化を進めることは、ブラジルにも貢献することになる」労働と資本が一体となった移住推進が必要。自らも手本として、初めての渡伯の時に、レジストロに1200ヘクタールの土地を購入した》(サイト=FIAL第38回フォーラム、栗田政彦、甲南学園平生釟三郎研究会委員)
平生は海興職員の藤田克己や渡辺孝の案内でイグアッペ植民地を視察し、この二人の勧めでジュキア、レジストロ間の3千アルケールの原始林を購入したという。サンパウロ市とパラナ州都クリチーバ間をつなぐ国道116号が開通し、《あの地帯を通過したので現在では有望の土地となつて来た。平生氏は他の多くの視察者中では最も先見の明のあった方と思われる》(野村『思い出』58頁)。平生の目をして南聖に土地を買わしめる優位性が、ここにはあった。
通商関係の深い国とは戦争できないはず。それはビジネスマンから見た透徹した歴史観であった。でもその綿花貿易だけで両国関係を劇的に改善することは不可能だった。
1924年に米国への移民送り出しを止められ、ブラジルでも34年に制限され、早急に次を必要とした日本の移住政策は、この後、満州へ急ハンドルを切った——。翌36年に広田弘毅内閣は満蒙開拓団として20年間で100万戸送り出す計画を策定したのだ。
満州移民との最大の違いは、ブラジルでは軍部がまったく関わらなかった点だ。〃海外発展〃という思想的な方向性には共通した部分があったが、あくまで外交・通商重視、国際協調的な植民だった。(つづく、深沢正雪記者)